証言,公文書等,様々な文書を徹底調査

資料の詳細

出典種別 被害証言
現在の地域情報ジャカルタ首都特別州
資料にある地域情報バタビア、グドゥングサリ通り
慰安所があった時期1944年
記載内容日本軍将校で吉田と名のる男がリアに同情し(少なくとも彼女にはそう見えた)、彼女をグドゥングサリ通りの家に連れていった。吉田は他の将校数人とそこに住んでいた。リアは最初、これで自分の苦労も終わりだと思った。・・・性欲のかたまり同然の男どもの牙からリアを助け出してやったのだからと思っていたのだろうが、こと性欲に関して吉田は彼らと少しも変わらなかった。性欲に突き動かされた日本兵たちから毎日20回以上も犯されることはなくなったが、この将校からもほとんど毎日のように性欲のはけ口にされた。リアがこの「接待」を拒もうものなら、将校は暴力をふるった。・・・リアは吉田の子を宿してしまった。1944年10月13日、リアは男の子を生んだ。彼女は15歳だった。赤ん坊は武志アントニウスと命名された。・・・この子が生まれて1ヶ月後、リアはまたもこの将校の子を宿した。
証言者リア(仮名)
証言者属性オランダ系被害者
部隊名
資料タイトル折られた花 日本軍「慰安婦」とされたオランダ人女性たちの声
著者、公文書発信者などマルゲリート・ハマー
公文書宛先
発行日2013.11.15
発行所新教出版社
ページ76-77
出典備考この後、リアはハンスと出会う。2人の子供は洗礼を受ける。吉田に2人の子供を会せると吉田はリアに相談なく日本へ2人を連れ帰ってしまう。リアはハンスと結婚しオランダに帰国したが、リアは2人の子供を探し続けた。財団「サクラ」やPICN(財団「オランダ事業実施委員会」)がこの捜索に協力した。PICNはこのことで「アジア助成基金」にも相談した。ハマーは1998年に日本政府から招待され基金関係者に会うこととなった。翌年、訪日し関係者から情報を収集した。「吉田は1946年5月28日バタビア出航のリバティ船で日本へ向かった」「船は1946年6月15日、日本に到着」したが、吉田は1948年に亡くなっており、2人の子供の行方は結局分らなかった。2000年に天皇夫妻がオランダを訪問した際に、PICNは極秘に皇后美智子に援助を乞う書簡を介在者を通じ手渡すことができた。極秘のことだったが、情報が漏れ、日本の新聞に「慰安婦、日本の皇后に助けを乞う」などと報道された。しかし、2人の子供は発見されないまま、2007年にリアは亡くなった。概要以上のことが本資料に記されている。この件に関し、例えば朝日新聞は2000.4.6朝刊に「「息子を捜しています」オランダ人の元慰安婦が皇后陛下に手紙」の見出しでこのことを伝えている。
備考 グドゥングサリ通り不明。
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