記載内容 | わたしたちの仲間のうちにも、女なんかみんな慰安所へぶちこんでしまえばいいのだ、と暴論を吐くものもあった。内地ですでに、俘虜の姿をみかけて、『お可哀そうに』といったとかで、はげしく軍部から指弾された婦人もあったくらいで、敵国人に同情を寄せることは禁物だったから、そういう放言にも真正面から反対するわけにはゆかなかった。・・・ここに収容されている婦人たちも、生活の面ではしだいに苦しくなっているらしく、時計や貴金属の類を手ばなすものも出てきているという話であった。だが、たくましい華僑や、インドネシアの商人に足もとを見すかされて買いとられるので、ほとんどいくばくの金にもならなかったにちがいない。いよいよつまってくると、古来、女の売る最後のものというのは、どこでも相場が決っている。日本軍は、そういう婦人たちを、街はずれのマンガライというところにある将校慰安所にうつしていた。住宅のまばらな一角を区切って、ここは鉄条網ではなく、粗末な高い板塀をめぐらしてあった。わたしも、一度、人につれられて行ってみた。ちょうどそのころ、陸軍報道部の広石権三少佐が枢軸国の記者団を案内してジャカルタにきていた。やはりその一行についてきた情報局の役人が、よせばいいのにこの将校慰安所に記者団をつれてきた。・・・すると、そのうちの1人の酔っぱらいの中尉が、突然、椅子の上に仁王立ちとなり、『帰れ、すぐ帰れ、帰らないと抜刀するぞ』と、記者団に向い、剣把を握って呶鳴りはじめた。情報局の役人がなんとか弁解しているようだったが、いつかなききいれようとはせず、ますます猛りたつばかりであった。わたしたちは、ビール代を払って匆々にひきあげた。案内するに事欠いて、おなじ白人の慰安所へ連れてくるとは、バカな役人もあるものだとわたしたちは話しあった。今村大将の人間的な軍政も、いまや、いたるところで破綻に瀕していた。 |