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資料の詳細

出典種別 被害証言
現在の地域情報西ジャワ州 チマヒ
資料にある地域情報チマヒの将校宿舎(ゲバン・クラパンとは別)
慰安所があった時期
記載内容スハナさんは、時々、将校の「慰安」をするために呼びだされることがあった。そんな時にはゲバン・クラパンの慰安所の前に車が迎えに来た。その車で将校宿舎に向かったのである。3人の将校が、代わる代わるスハナさんを呼びだした。将校宿舎から戻ってくると、また下級兵士の相手をするのだ。また、ゲバン・クラパンの慰安所から3,4人が別の慰安所に移動して働かされることもあった。行った先の慰安所にもたくさんの女性はいたが、人数不足の場合だったのだろう。夕方連れていかれて、朝には帰された。毎週土曜日に来て3人の中国人に指示を与えていた憲兵の命令で、慰安所はゲバン・クラパンからカリダム通りに移されることになった。日本軍駐屯地の外れに水門があり、5メートルほどの幅の川が流れている。その川に沿ったカリダム通りに、元オランダ軍の将校用住宅が建ちならんでいた。・・・その1軒に入ったのである。・・・
「私は日本軍から何も与えられませんでした。ゴミのように棄てられたんです。私は日本が憎いと思う。私の身体を壊してしまった日本軍がとても憎い。けれど、どうして私のようなひとりの女が憎しみを晴らすことができるでしょうか。憎しみを晴らす、そんな考えはありません。精神病にならなかったこと、病気で死ななかったこと、これが私にとって幸運なことでした」
証言者スハナ
証言者属性インドネシア人被害者
部隊名
資料タイトルインドネシアの「慰安婦」
著者、公文書発信者など川田文子
公文書宛先
発行日1997.5.31
発行所明石書店
ページ111、114
出典備考注:チマヒのシンパン通りには、かつてゲバン・グラパンと呼ばれた将校用住宅があった。ゲバン・クラパンの4番目の住宅に4人(エミィ、エマ、スハナ、オモであろう)が入れられ慰安所として使われた。そのゲバン・クラパンの慰安所から将校宿舎に出張させられたり、他の慰安所に移されたりした。ゲバン・クラパンの慰安所は移転するのである。なお、証言の中の中国人は慰安所の管理人であり慰安婦ではない。
備考 チマヒはバンドンの西北にある。
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