出典種別 | 公文書・軍関係資料等
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現在の地域情報 | 中部ジャワ州 スマラン |
資料にある地域情報 | スマラン |
慰安所があった時期 | 1944年3月 |
記載内容 | やがて「ホテルスプレンデッド」へ着いたが此処で始めて我々は若干の不安を感じ始めた。何となればそこには既に「札つき」の女ばかりが居たからであった。彼女達も我々には何も知らせず、その晩は「メナド」人の番頭に依り皆1室に入れられて寝た。翌朝その「メナド」人は我々に皆別の1室に入って住むやうに言ったが、我々は漸く運命が判って来たので之を断った。即ち前の晩我々の中の1名が屋内を見廻り検査室や予防具のあるのを発見した。即ち我々は今や慰安所に入れられたことが判ったのである。必し拒んでも甲斐なく我々は殴られたり突かれたりして、皆各部室に入れられて終った。私は神経が昂ぶり「ヒステリー」症状を呈し、膝が「ガタガタ」ふるへて歩行が出来なかった。然し之も何の容赦もされず、遂に私の番が来て、出来るだけ抵抗したが、終に力つきて強姦されて終った。客から我々は1枚3盾の切符を受取り之を夜になると又提出しなければならなかった。我々は1日に8~10枚の切符を出さねばならなかった。幸ひ私は金を持っていたので、之で日本人を買収し寝ないで切符だけを貰ふことが出来た。ある時2名の娘が逃亡を企てたが数時間後には憲兵に連れて帰された。我々はこの「ホテル」で日中一杯と夜の一部を働かせ続けられた。私は其処に4月1日迄いたが、毎週日本人の医者に汚い室で戸棚を倒した上へ「マット」を布いて検査をうけた。ある1人の娘は「キニーネ」を多量に飲んで自殺を図った。然し彼女は聾になっただけで済んだ。又M.K夫人は半分気狂になって「アンバラワ」キャンプへ帰された。44年4月1日我々はP.v.B(青雲荘)に移され、4月26日迄居たが状況は前と同じであった。4月26日此所は閉鎖され、我々は5月9日「バイランゾルフ」の「コタパリス」抑留所に移された。 |
証言者 | G.M.v.d.H |
証言者属性 | オランダ人被害者 |
部隊名 | |
資料タイトル | BC級裁判(オランダ)/バタビア裁判 106号事件/証言 被害者G.M.v.d.H |
著者、公文書発信者など | |
公文書宛先 | |
発行日 | 1945.10.22 |
発行所 | |
ページ | |
出典備考 | 国立公文書館蔵/wam公文書サイト:J_J_077/106、276~277/参考資料:強制動員真相究明ネットワーク刊『BC級バタビア裁判・スマラン事件資料』2014年8月20日/ |
備考 |
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