証言,公文書等,様々な文書を徹底調査

資料の詳細

出典種別 公文書・軍関係資料等
現在の地域情報中部ジャワ州 スマラン
資料にある地域情報スマラン
慰安所があった時期1944年5月
記載内容確か1944年5月位だと思ふが、憲兵が私のところへ来て、今後慰安所が数軒開設されるから「ヘニーラーン」の慰安所の慰安婦の衛生指導をやってくれとのことであった。私の仕事の内容は洗滌、病気及妊娠の診断、時には分娩の手当等で日本人は私に月給20盾をくれた。「ヘニーラーン」の慰安所とは私の家の前の建物で、元の「ホテル・スプレンデッド」後日本人は之を「クラブ」(下欄に「スマラン・クラブ」と注記)と改称し、その隣りの2軒が慰安所として使用されていた。1944年9月頃、各「キャンプ」からの婦女子が約60名連れてこられた。その中の2名は少くとも3名の子供を連れていたことを憶えている。・・・
3名の娘が失神したが、名は憶へていない。此の3名は正気づかせる為に打ち殴られたり、大声で怒鳴られたりした。日曜日(到着及検査の翌日)高熱を出したR姉妹の処へ呼ばれた。既に第1日目である日曜日の午前中に18名~20名の客がとられ、その上夜間にも仕事があった。月曜日の朝には既に数名の娘は起き上れず、歩けもしなかった。その時私は伊藤が3名の娘を帰さずにそのままとってをき慰安所で強姦したと云ふことを聞いた。数名の犠牲者達は心痛と神経から態度が普通でなく、B姉妹は逃げ出して終った。然し、彼女達は火曜日の朝には警察の手に依って捕った。送り帰されて来てから、彼女等は裸にされ洗濯夹を乳首につけられて便所の掃除をさせられ通りがかりの日本人から侮辱された。・・・私は「カナリーラーン」からか、「ホテル、ベルヴェ」からの20名の中から5名の娘が「ウンカンウエル」11番地の池田大佐の官舎に行っていたことを知っている。然し此の大佐も悪者で良く慰安所へ行くと云ふ以外は私は彼に関しては知らない。
証言者Pabst夫人
証言者属性看護師(38歳)
部隊名
資料タイトルBC級裁判(オランダ)/バタビア裁判 69号事件/報告書 看護師P夫人(38歳)
著者、公文書発信者など
公文書宛先
発行日
発行所
ページ
出典備考国立公文書館蔵/wam公文書サイト:J_J_032/069-165~167 386 3/t/参考資料:強制動員真相究明ネットワーク刊『BC級バタビア裁判・スマラン事件資料』2014年8月20日
備考 ヘニーラン不明。
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