出典種別 | 公文書・軍関係資料等
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現在の地域情報 | 中部ジャワ州 マゲラン |
資料にある地域情報 | マゲラン |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 我々幹部は16才から25才迄の婦人全部を呼ぶやうに命ぜられた。我々は彼等が何か良からぬことを計画していることが判ったので、此のやうなことは「キャンプ」に不安を惹起するからとの理由の下に何とか日本人が之を断念するやうに務めた。・・・間もなく娘達が我々の事務室の前廊に集まって来たがその数はざっと100名許り居た。之等の娘たちは日本人の前を歩き、日本人が帰って良い娘を指摘し、結局残った者は40~50名ほどとなった。之等の人々に対しては日本人の命令とその直接監督下にB夫人と私に依り名簿が作成され、之が「タイプ」に打たれた。・・・それから5~6週間たって、此の問題がそろそろ忘れられかけて来た頃、突然前と同じ日本人に猶見知らぬ数名の日本人がついて我々の「キャンプ」にやって来た。・・・やがて命令は実行され、娘達は教会の中に列ばねばならなかった。・・・其の後聞いたところでは娘達は日本人の1医師に依り教会の中で、唯、目でみるだけの簡単な検査を受けたとのことであった。・・・又後に判ったところでは15名の娘が母親と共に教会の中に残されその他の者は戻されたのであった。・・・娘達のなかの7名は出発することに全然異議はなかった。・・・然しその他の人々はこれには不同意であった。これらの8名の娘達は時間通りには集まらず母親に依って隠されて了った。・・・我々としても、然しどうすることも出来なかった。待ち切れなくなった日本人共は巡査をして部屋から娘達を連れてこさせた。・・・猛烈な抗議と興奮状態がまき起こされたが、日本人共は護衛の巡査に「サーベル」を抜かせて我々を追ひ払はせた。・・・斯くて約15名の娘達は1台の「バス」に乗せて連れて行かれその後から日本人が乗用車で護衛して行った。・・・此の事件のあった後数日してE.Hはもう1人の娘と共に「キャンプ」に戻されて来た。Eから私が聞いたところでは、彼女等はマゲランの将校宿舎に連れて行かれたとのことであった。・・・即ち彼女等は家から出ることを許されなかったこと、又T.Pは夜間訪客があると8名の娘を「マンデー」の中に隠したこと。又その家は明らかに日本人慰安所(render vores)であったこと。 |
証言者 | C.Herman夫人 |
証言者属性 | 33歳、ムンチラン抑留所副会長 |
部隊名 | |
資料タイトル | BC級裁判(オランダ)/バタビア裁判 106号事件/証言 |
著者、公文書発信者など | |
公文書宛先 | |
発行日 | 1948.3.16 |
発行所 | |
ページ | |
出典備考 | 国立公文書館所蔵/wam公文書サイト:J_J_094/106-306~307 23128/R/参考資料:強制動員真相究明ネットワーク刊『BC級バタビア裁判・スマラン事件資料』2014年8月20日 |
備考 |
梶村太一郎、村岡崇光、糟谷廣一郎『「慰安婦」強制連行-〔史料〕オランダ軍法会議資料×〔ルポ〕私は”日本鬼子”の子-』金曜日、2008.6.6、81-85ページには、原本のオランダ語からの翻訳がある。
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