記載内容 | サイダさんの父親は、ジョグジャカルタ郊外の、ある地域の区長だった。日本の軍人は駐屯地の状況を把握するため、地域の有力者から情報を得ていた。それで、区長である父のもとにミナトという日本の軍人がしばしば出入りしていた。農作物の収穫期などにもミナトは村に来ていたので、村の人はミナトのことはよく知っていた。・・・サイダさんは当時、警察官の寮の敷地内にあった叔父の家に住んでいたが、その日、ミナトが帰ると、母は恐怖におののいて、サイダさんにすぐ家に帰るようにといいに来た。家に帰ると、ミナトのニョニャ(奥様)になるようにいわれた。サイダさんは、日本の軍人が怖かったし、見も知らぬ男のもとへなど行きたくはなかった。けれども父の立場では、日本の軍人の要望を退けることはできなかったのだ。日本軍がジョグジャカルタに駐屯したのは1942年である。サイダさんがコタバル(新町)にあったミナトの宿舎に連れていかれたのは、それから1年経った頃のことだ。コタバルはオランダ軍の将校用住宅があった地域だ。・・・ミナトに最初に会った時、サイダさんは恐怖のあまり身体がひきつっていた。・・・サイダさんは、高い塀のある裏庭以外には外に出ることは許されなかった。・・・ミナトは当時、30代で日本には妻も子もいた。・・・サイダさんはミナトに大事にされたという実感はある。ミナトは常々、サイダさんとの間に子どもができることを望んでいた。・・・1945年7月頃のことだ。妊娠8 か月になっていた。ミナトは戦局が激しくなっているから、家に帰るようにと指示した。・・・サイダさんは用意された馬車で家に帰った。・・・9月2日、サイダさんは男の子を無事に出産した。ミナトは時折、家にサイダさんと子どもの様子を見にきた。 |