記載内容 | 私は、昭和10年(1935)から20年(1945)まで、インドネシアのスラバヤというところに、軍の特別工作部隊のタイピストとしていました。私を含めて、7人のタイピストがいました。そこにあった慰安所は、将校用、兵隊用に分かれていて、将校たちが行く慰安所は、料亭風の立派な建物でした。そこにいたのは、日本人慰安婦です。兵隊たちが行く慰安所は、軍が建てたバラックのような建物でした。長屋風で、入り口のドアがいくつも並んでいました。慰安所の入り口には「スラバヤ方面102根拠地隊管理部統括」と書いた看板がありました。入り口には、日本兵が1人、警備に立っていました。その慰安所にいたのは、朝鮮人女性25人ほどです。日本人慰安婦は、30から40歳ぐらいでしたが、朝鮮人慰安婦は、16歳から20歳ぐらいの若い女性ばかりでした。・・・料金も、民族によって違い、日本人慰安婦の場合は2円50銭、朝鮮人慰安婦の場合は、1円から1円50銭でした。・・・私は、仲良くなった2人の朝鮮人慰安婦から、どうしてこんな所に来るようになったのか尋ねたことがあります。1人は、まだ16歳でした。釜山の出身です。日本名で「金本文子」といい、「ふみこ」と呼ばれていました。食堂で働かないかといわれ、家族を助けられると思い、来たということでした。もう1人は、20歳ぐらいでした。・・・引き上げてくるとき、船底に慰安婦が100人ぐらい乗っていました。なかには、赤ん坊を連れている女性もいました。船の中での慰安婦たちの扱いがあまりひどいので抗議しましたら、下士官が、「人間扱いする必要はない。牛馬以下なんだから。乗せてやっただけでもありがたいと思え」と言いました。気の毒で、食料を盗み出しては、彼女たちに運びました。 |