記載内容 | 明11月17日は、パレパレに向かって嶋村中隊スラバヤ残留隊が出発することに決まり、今日は生命の洗濯、外出が許可された。残留隊といっても僅かに5名で、うち1名である田中兵長は病院下番の原隊追及兵である。・・・「甘党陣屋」を出た田中兵長は西方へ歩く。・・・綺麗な名も知らぬ青々とした並木道の向うが慰安所で、聞いて来たとおりである。オランダ屋敷というのか、同じ様な緑の屋根をした平屋が10戸ずつ道の両側に並んでいる。全部同じ構造らしい。そこには兵士の姿は見えず、慰安所の看板も見当たらない。家並びの中央へ出て来たのだが、ままよ右へ歩き、最初の家を玄関から覗いてみた。・・・次の家へ行く。今度は大声で、「今日は」と入ってゆくと、奥から「はーい」と若やいだ娘の声が返ってくる。・・・玄関の右側の壁には「トミ子」の名札が見える。・・・女の子は勿論、現地人で何を考えているのだろう?・・・軍票2枚渡すと後は、玄関先まで手を繋いで送ってくれた。・・・小林少尉以下5名の残留隊は、スラバヤ兵站を出て、タンジュン・ベラから乗った船は海上トラックと言われる500総トン程度の〔広東丸〕である。・・・若い女で溢れている。船員の話では、第2方面軍の転進に当たり、先ず第1に婦女子が引揚げられていたわけ。この船は、セレベス島ケンダリーからでスラバヤ着発とのことである。ケンダリーでは、芸者・日本ピー・朝鮮ピーの順で引揚げてきたそうである。 |