出典種別 | 被害証言 |
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現在の地域情報 | 東カリマンタン州 バリクパパン |
資料にある地域情報 | バリクパパン、グヌンマラン慰安所 |
慰安所があった時期 | 1944年 |
記載内容 | 東ジャワの貧農の7人兄弟の3番目に生まれました。1944年15歳の時、役人が15歳以上の娘たちの教育のためと登録させに来ました。私は運悪く家にいて見つかり、父も役所に呼び出されボルネオの学校行を命ぜられました。役所へいくと大勢の男たちと4-5人の少女がいてトラックでスラバヤへ。そこは沢山の少女がいて私たち30人はボルネオ島のバリクパパンへ。他の子たちはバンジャルマシンへ連れていかれました。 バリクパパンで私たち18人はグヌンマラン慰安所に、他の12人は別の慰安所に入れられました。私は「キミ」と呼ばれ、オノという石油会社社長に強かんされました。1週間後にオノが来なくなると今度は沢山の兵士の相手をしなければならなくなりました。多い日は軍人10人、私服の軍属20人近くが来ました。 2009年には「バリクパパンに慰安所をつくってやった」と回想する中曽根康弘元首相に私の苦難と屈辱を訴えたくて面会をもとめましたが会ってくれませんでした。 |
証言者 | スハルティ |
証言者属性 | インドネシア人被害者 |
部隊名 | |
資料タイトル | 第13回特別展カタログ 「『アジア解放』の美名のもとに インドネシア・日本軍占領下での性暴力」 |
著者、公文書発信者など | アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam) |
公文書宛先 | |
発行日 | 2016.12 |
発行所 | アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam) |
ページ | 18 |
出典備考 | 川田文子『インドネシアの「慰安婦」』によるとグヌンマラン慰安所については、部屋数は約30室、一部屋は5畳ほど、ドアがあり窓もあり、ベッドと机が置かれていた。管理者はナカムラという30歳位の日本の民間人。3人のインドネシア男性がナカムラの下で働いていた。利用時間は軍人が午後12時から5時、軍属待遇の私服組が午後5時から12時。 |
備考 | バリクパパンは東カリマンタンの海岸沿いにある。グヌンマランは「マラン山」の意味。 |