出典種別 | 被害証言 |
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現在の地域情報 | 東カリマンタン州 サンガサンガ |
資料にある地域情報 | サンガサンガ |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 17歳の時のことである。ある日、突然、ヤマダというインドネシア語のできる日本人が来て、「日本とインドネシアはひとつだ」などと、両親に話をもちかけた。ヤマダは、袖に錨の刺繍と二本の赤い線のあるシャツを着ていた。「いい仕事がある。娘を探している」と、ヤマダはいった。両親は渋った。「娘はひとりしかいないので、手元に置いておきたいのです」だが、ヤマダはピストルを持っていた。日本人に抵抗すれば何をされるのか分からなかった。それに、その時点では両親もシティネンイジョさんもヤマダのいう「いい仕事」が「慰安婦」になることであろうなどとは考えも及ばなかった。結局、両親はヤマダに同意せざるを得なかった。・・・行き先は知らされなかった。どんな仕事なんだろう、という少女たちの疑問にヤマダはレストランで働くんだと答えていた。船はボルネオのバリクパパンに着いた。そして、全員憲兵隊本部に連れていかれたのである。・・・家を出て約1か月もかかって目的地サンガサンガに着いた。町から離れた森の中に1棟の古い建物があった。・・・そこで、日本兵に奉仕するようにといわれた。けれども、性経験のなかったシティネンイジョさんは、「奉仕する」というそのことばの意味を理解できなかった。サトウ、イケダ、ヤマザキと、朝8時から夜12時まで、日本兵が代わる代わる部屋に入ってきた。・・・ヨシタニ班長がシティネンイジョさんを慰安所から連れだしたのは2年後のことである。・・・天井の高い、しっかりしたその家には営外居住の3人の軍人が住んでいた。ドクトル・カワムラ、会計課長、そしてヨシタニである。・・・それぞれにニョニャ(奥様)と呼ばれるインドネシア人女性がいた。・・・3人の軍人が営外居住していたその家で妊娠し、その家で生まれた。そしてヨシタニによってキヨミと名付けられた。 |
証言者 | シティネンイジョ |
証言者属性 | インドネシア人被害者 |
部隊名 | |
資料タイトル | インドネシアの「慰安婦」 |
著者、公文書発信者など | 川田文子 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1997.5.31 |
発行所 | 明石書店 |
ページ | 121-124 |
出典備考 | |
備考 |
バリクパパン50万分の1の地図のサマリンダの東南方向にサンガサンガがある。マハカム河の支流であるサンガサンガ河の河岸沿い(東側)にサンガサンガがある。現在の地図の同所にサンガサンガSanga-Sangaがある。マハカム河沿い(南側)がサンガサンガの範囲である。旧地図ではマハカム河の支流はサンガサンガ河であるが、グーグルマップでは支流名のマハカム川である。 旧地図は次を参照のこと。 http://chiri.es.tohoku.ac.jp/~gaihozu/viewer/index.php?ghzno=TH008603 |