| 出典種別 | 被害証言 |
|---|---|
| 現在の地域情報 | 南スラウェシ州 マカッサル |
| 資料にある地域情報 | マカッサル |
| 慰安所があった時期 | 1943年 |
| 記載内容 | 台北で働いていた時、南洋で看護助手募集の広告を見た友人たちから、「お金になる仕事がある」と誘われました。「字が読めなければ、炊事の仕事もある」と言われ、行くことにしました。1943年、20歳の時、日本人の男女に連れられ23人の女性たちと高雄から浅間丸に乗りました。インドネシアのマカッサルに到着し、1週間後、青島丸に乗り換えボルネオ島のバリクパパンに着きました。3日後、一緒に行った3人が空襲で亡くなり、私もお腹と目を負傷して軍人病院で治療し、子宮と左目の視力を失いました。その後、マカッサルに戻り山の上に移動すると、椰子の葉で作った建物がありました。字の分かる女性が「松乃家慰安所」の看板があると言うので、みんなで日本人の女性に抗議しましたが、「絶対逃げられないから、御国のために尽くしなさい」と言われました。夜になると軍人がきて私に襲い掛かり、恐ろしさと痛さで気を失いそうでした。それからは、1日に20数人の軍人の相手をさせられました。日本が戦争に負けると軍人たちは逃げ帰り、私たちは現地に放り出されました。1947年2月、台湾同郷会の世話で、台湾に帰国することができました。 |
| 証言者 | 黄阿桃 |
| 証言者属性 | 台湾人被害者 |
| 部隊名 | |
| 資料タイトル | 第11回特別展カタログ 「台湾・『慰安婦』の証言 日本人にされた阿媽たち」 |
| 著者、公文書発信者など | アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam) |
| 公文書宛先 | |
| 発行日 | 2014.3 |
| 発行所 | |
| ページ | 17 |
| 出典備考 | (仮名:セツコ) |
| 備考 | 日本名はセツコ。 |