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資料の詳細

出典種別 兵士の回想録等
現在の地域情報東ヌサ・トゥンガラ州 クパン オエプラ
資料にある地域情報チモール島 オエプラ
慰安所があった時期1944年
記載内容チモール島の飢餓地獄で生きのびた私たちに、武勇伝はない。だから、戦争の話をしろと言われても困るのである。96名のささやかな墓標を、南半球の島に残してきたわたしたちの胸にあるのは、被爆と熱帯病と飢えと執拗な雨との暗い記憶だけである。しかし、そのいやな島にも、慰安婦たちがいた。そして、ほんのすこしばかり、いい思い出を残してくれたのだった。はじめ、野戦重砲兵大隊(島の東北端のラウテンに分駐した第5中隊を除く)は、島都クーパン(といっても、人口数千の小さな町)の郊外に駐屯していたが、兵隊たちは、日曜になると、クーパン・バクナシ・オエプラの慰安所へ出かけていって女を抱き、食堂に寄って、わずかに慢性の飢えを満たした。慰安所は4か所あって、朝鮮女のいるクーパンの慰安所以外は、ことごとく、色の黒いチモール女に占められていた。兵隊たちは、そうした女たちの部屋の前に列を作り、順番を待った。中には待ちきれず、戸をどんどん叩いて、「おう、まだかァ」などと催促するものもいた。・・・オエプラには、オランダとインドネシアの混血女もいたが、その異国風の美女は大繁盛で、下士官などには、かなり熱をあげているのがいた。・・・昭和20年、わたしたちは、チモール島中部の、ボアスという辺境にいて、ボロボロのシャツとズボンをチモール人の目に曝し、飢え、痩せ細り、ときどきマラリアの熱を発し、何人かの戦友を葬り、辛うじて生きていた。そんなところにも、どうしたわけか、やっと暗い雨季も終わった3月、10名のインドネシア慰安婦がやってきて、大隊本部の近くに2棟の小屋を立てて、商売を始めたのである。
証言者秋元実
証言者属性日本軍兵士
部隊名野戦重砲大隊
資料タイトルかたりべの群れ2 私の戦時体験
著者、公文書発信者など沼津戦後の戦友会
公文書宛先
発行日1988
発行所私家版
ページ9-11
出典備考秋元実「慰安婦と兵隊」
備考 クーパン、バクナシ、オエプラ、ボアスに慰安所があったと読み取れる。ここではオエプラをとった。25万分1図チモール島の西端にクーパンKOEPANGがあり、その南にオエプラOepoeraがある。現在の地図の同所にオエプラOepuraがある。クーパンの一部である。参考地図:http://chiri.es.tohoku.ac.jp/~gaihozu/viewer/index.php?ghzno=TH008980(東北大学所蔵)
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