記載内容 | チモール島の飢餓地獄で生きのびた私たちに、武勇伝はない。だから、戦争の話をしろと言われても困るのである。96名のささやかな墓標を、南半球の島に残してきたわたしたちの胸にあるのは、被爆と熱帯病と飢えと執拗な雨との暗い記憶だけである。しかし、そのいやな島にも、慰安婦たちがいた。そして、ほんのすこしばかり、いい思い出を残してくれたのだった。はじめ、野戦重砲兵大隊(島の東北端のラウテンに分駐した第5中隊を除く)は、島都クーパン(といっても、人口数千の小さな町)の郊外に駐屯していたが、兵隊たちは、日曜になると、クーパン・バクナシ・オエプラの慰安所へ出かけていって女を抱き、食堂に寄って、わずかに慢性の飢えを満たした。慰安所は4か所あって、朝鮮女のいるクーパンの慰安所以外は、ことごとく、色の黒いチモール女に占められていた。兵隊たちは、そうした女たちの部屋の前に列を作り、順番を待った。中には待ちきれず、戸をどんどん叩いて、「おう、まだかァ」などと催促するものもいた。・・・オエプラには、オランダとインドネシアの混血女もいたが、その異国風の美女は大繁盛で、下士官などには、かなり熱をあげているのがいた。・・・昭和20年、わたしたちは、チモール島中部の、ボアスという辺境にいて、ボロボロのシャツとズボンをチモール人の目に曝し、飢え、痩せ細り、ときどきマラリアの熱を発し、何人かの戦友を葬り、辛うじて生きていた。そんなところにも、どうしたわけか、やっと暗い雨季も終わった3月、10名のインドネシア慰安婦がやってきて、大隊本部の近くに2棟の小屋を立てて、商売を始めたのである。 |