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資料の詳細

出典種別 被害証言
現在の地域情報地名特定不可能
資料にある地域情報インドネシア
慰安所があった時期
記載内容1937 年8 月のある日、私は区長の案内で村に現れた日本兵に訳もわからず捕まり、ほろを張ったトラックに乗せられて同じ年頃の20余人の娘と一緒に釜山へ連れて行かれた。釜山の港には20歳前後の朝鮮女性が数百人集まっていた。日本軍将校がうずくまっている朝鮮女性の前に現れて、「おまえたちに幸運がやってきた。それなのになにが恐くて震えているのか。日本軍将校の指示に絶対に服従しろ」と怒鳴り、船に乗れと命じた。私たちは日本帝国主義の「婦女供出」にかかったことを知り、身震いして泣いた。釜山港を出た船が最初に着いたところは台湾で、そこで私たちはいくつかのグループに分けられた。私が属したグループは各種の大砲と戦車として戦地に向かう日本軍将兵が乗っている大きな船に罪人のように乗せられた。そこには同じような船が何隻かあって、各船に朝鮮女性が乗せられていた。台湾を出航した船は昼夜航海を続け、インドネシアのある港に着いた。そこでまた10 人ずつに分けられ、日本軍の駐屯地へ連れて行かれた。日本軍兵営の前に着いてみると、遠くないところに長屋があって、その両側に銃を構えた日本兵が立っていた。それは「従軍慰安所」で、部屋にはコンクリート床に2枚の毛布をつけた木づくりのベッドが置いてあった。私は3 号室に入れられ、そのときから朝子と呼ばれた。・・・その日から昼は日本の兵卒20 人、夜は将校5~6人を相手に性奴隷生活を強いられた。・・・ある日の夕方、「慰安所」の責任者が朝鮮女性全員を庭に集めた。隣の部屋にいた小花という釜山から来た娘が連日の苦痛に堪えられず、逃げようとして捕まり、処刑されるというのだった。・・・ある日、7 号室にいた娘が日本兵のけがらわしい行為に憤慨して手に噛みついたところ、かれらは彼女の後頭部を目玉が飛び出るほど蹴りまくった。・・・一緒に行った朝鮮女性のうち生き残ったのは4 人だけだった。
証言者姜吉順
証言者属性朝鮮人被害者
部隊名
資料タイトル踏みにじられた人生の絶叫
著者、公文書発信者など「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会
公文書宛先
発行日1995
発行所「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会
ページ40-42
出典備考
備考
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