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資料の詳細

出典種別 兵士の回想録等
現在の地域情報ヤンゴン管区 ヤンゴン西部県 ダゴン郡区
資料にある地域情報ラングーン
慰安所があった時期1945年4月
記載内容方面軍幕僚は、その前々日21日までは、「ラングーンは絶対死守する」と豪語し、方面軍専用の料亭翠紅園に連日入り浸っていた。・・・前述したとおり、ビルマ方面軍の撤退は、昭和20年4月23日24時、翠紅園が営業を停止したのは、その前々日の4月21日23時である。ラングーン翠紅園とは、九州久留米の料亭翠紅園の分身として編成され芸者55名を有し、もっぱらビルマ方面軍ならびにビルマ駐留軍団の高級将校を慰安する任務をもって来緬した高級料亭である。・・・かかる戦況下においても、己れ達の快楽を満たすためになお営業を強制されていた翠紅園の女性達は、もはや陸路にて撤退することが困難になり小舟艇ダイハツにて、最悪の場合に備えて方面軍後方参謀が重要軍需品の転送用に準備した虎の子の舟艇であったが、海路モールメン(サルウイン河河口に位置し、商業都市として栄えたビルマ第三の都市)に脱出する。また方面軍副官部が直轄した日本人慰安婦も海路モールメンまで逃れたが、軍はそれ以上彼女等を連れ歩くことが困難になり、その内より特別縁故の女性5人を、彼女等は方面軍将官の専用の女性であるが、バンコックまで輸送してくれるよう軍最高副官福島中佐より懇請され、小官はこれを受諾した。・・・ワウよりニューアンレビン(シッタン河西岸)に至る約百キロの道路は膝を没する泥濘地帯であり(ビルマにあっては雨期になると平坦地は化して湖沼となる。したがってマンダレー街道のごとき主要幹線道路は高さ2米位のアスファルト道路が一本構築されていたが、その他の枝線は小舟が交通の主役を代役した)、その道なき道を幾十とも幾百とも知れぬ朝鮮人慰安婦、中国人慰安婦が彼女達の全財産を背中に背負い右往左往し、阿鼻叫喚の坩堝と化していた。
証言者西原武臣
証言者属性日本軍兵士
部隊名
資料タイトル追憶 下
著者、公文書発信者など新京陸軍経理学校第5期生記念文集編集委員会事務局編
公文書宛先
発行日1985.3.20
発行所新京陸軍経理学校第5期生記念文集編集委員会事務局
ページ667
出典備考西原武臣「大東亜戦争と我が青春」
備考 翠香園に関する記述/ラングーンはビルマ南部にある。現在の地図ではヤンゴンである。/参考資料:『ビルマ(ミャンマー)に残る性暴力の傷跡』(「従軍慰安婦」問題を考える女性ネットワーク編1998.1)の表紙に「将校クラブ「翠香園」」の写真が掲載され、「現在は退役軍人のための施設となっている」とのキャプションがつけられている。
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