記載内容 | 我々がトング―駅に勤務するようになってから1か月くらいの間は、昼の爆撃も夜の機関砲掃射も、割合規模の小さいものであったが、日がたつにつれてだんだんと大規模なものとなった。・・・私たちが最初に宿舎として使用していた建物には、我々が引っ越すとまもなく前線から逃避してきた慰安婦(昭和13年に陸軍の将兵の間に性病が蔓延するのを防止するという理由でつくった軍直轄の管理売春制度であり、太平洋戦争のときは、南方占領地のいたるところに進出した。日本軍の行くところ慰安所の俗称であるピーヤ=P屋ありといわれるようになった。この慰安婦は女子挺身隊の名のもとに、日本人、朝鮮人、中国人、占領地の原住民などがだまされたり、強制連行されて、昭和18年には約20万人が集められた。なかでも朝鮮人が一番多く慰安婦にされ、将兵の性のはけ口としてもてあそばれた)の集団が一時駐留したこともあるが、空襲にやられて建物もろとも姿が消えてしまった(全員死亡したものと思われる)。慰安婦は軍の管理下にありながら、「物」としてしか扱われていなかったので、空襲で死んでも何の補償もなく、軍需品の一部が滅失したという処理であった。このことを思うと、いち早く宿舎を移転したために、我々は命拾いしたと胸をなでおろしたものであった。 |