出典種別 | 被害証言
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現在の地域情報 | マンダレー管区 メイッティーラ県 メイッティーラ郡区 |
資料にある地域情報 | メクデラ |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 19歳の年の1943年8月末頃、前田とう日本人が来て、「挺身隊」に入って6か月だけ働けばお金をたくさん稼げるから一緒に木浦へ行こうと言った。こうして私は他の8人の娘と一緒に元山で汽車に乗ったが、おりたところは木浦でなく釜山だった。私たちはそこで2日間閉じ込められたあと、別の日本人に引わたされ、400人余りの女性と一緒に釜山港で船に乗り、台湾をへてシンガポールに行った。日本軍はそこに半数の女性をおろした。私を含む残り半数はまた別の船に乗り換えて、ビルマ(ミャンマー)のラングーンに着き、私は19人の娘たちと一緒にトラックで2~3日夜間ばかり走って、メクデラという村へ運び込まれた。そこはサンボチョ第33連隊が駐屯していた。「慰安所」の正式名称は「メクデラ慰安所」で、中村という33歳ぐらいの日本軍中尉が責任者であった。「慰安所」は少し間をおいて2棟の建物からなっており、竹で編んだすだれで仕切られた10個の部屋が1列に並んでいた。部屋は2㎡くらい、2人がやっと横になれるほどの広さで、わらのマットと毛布が敷かれているだけだった。部屋の入口には私の本名の代わりに絹枝という日本名の札がつけられ、朝鮮のチョゴリを日本の簡単服に着替えさせられた。朝鮮語を使うことも許されなかった。歩哨が見張り、部屋の外へ勝手に出ることは許されなかった。 |
証言者 | 鄭松明 |
証言者属性 | 朝鮮人被害者 |
部隊名 | サンボチョ第33連隊 |
資料タイトル | 踏みにじられた人生の絶叫 |
著者、公文書発信者など | 「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1995 |
発行所 | 「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会 |
ページ | 26-27 |
出典備考 | 注:メクデラとはメイッティーラのこと。 |
備考 |
アジア歴史資料センター:C141060191800のビルマ50万分の1の地図に「メイティラ」がある。ビルマ鉄道が交差するサジの西である。現在の地図の同所はメイティーラーMeikhtilaである。ネピドーとマンダレーの中間付近に当たる。
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