出典種別 | 目撃証言
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現在の地域情報 | マンダレー管区 チャウセー県 チャウセー郡区 |
資料にある地域情報 | キャウセ |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 私は自転車屋として日本軍に出入りしていた。44年12月3日、イギリス軍とアメリカ軍の爆撃機135機がこの町を爆撃した。1時間15分も攻撃が続いた。そのとき防空壕に入っていた28人の朝鮮人慰安婦が死んだ。日本兵も、一般人も、私の妹3人もみな死んでしまった。マラリヤに罹っていた60人の兵士は助かったので、彼らのうち病状の軽い人が兵士と女性を別々に焼いた。女性たちはエンターテイメントの仕事だといわれて、来てみたら悪い仕事だった。仕方なくやっていた。日本のある大佐(名は忘れた)とイノウエ軍医はかわいそうなことだといって、そこには全然行かなかった。私もきらいなことだ。日本軍が兵士の楽しみのためにやらせたことだと思う。私はイスラム教徒だから厳しい戒律があり、女性と親しく話をしたり、部屋に遊びにいくというようなことはしない。 |
証言者 | ウ・サルタン |
証言者属性 | 現地住民 |
部隊名 | |
資料タイトル | ビルマに残る性暴力の傷跡-日本軍慰安所について現地調査報告 |
著者、公文書発信者など | 「従軍慰安婦」問題を考える女性ネットワーク |
公文書宛先 | |
発行日 | 1998.1.31 |
発行所 | 「従軍慰安婦」問題を考える女性ネットワーク |
ページ | 20 |
出典備考 | |
備考 |
キャウセについて、同書では2つの慰安所の写真が紹介されている。一つは「キリスト教子供寮」の名称があるもの。もう一つは名称がないもの。現地調査時、この2つの慰安所の建物が当時のまま残っていた。
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