記載内容 | ビルマで大きな慰安所は、モールメン、トングー、ピンマナ、メークテーラ、マンダレー、ラングーンにありました。比率は朝鮮人慰安婦10、ビルマ人慰安婦4、中国人慰安婦と印度人慰安婦は2、日本人慰安婦は0.8ぐらいの割りでなかったかと思います。日本人慰安婦はここでも将校用でした。まず朝鮮人、日本人の慰安婦が進出し、半年ほどの間に中国人、ビルマ人、印度人の女が集められ慰安婦にさせられたのでした。もっとも、朝鮮人、日本人の慰安婦たちが、部隊と一緒にタイとの国境を山越えしてやってきたのか、その後、つまり占領後だったのかはよく知りません。各部隊では、多いところで、1ヵ所の慰安所に20人ぐらい、普通は10人ぐらい女がいました。女はみな20歳前後で、気分的にはよかったですね。インドピーは、あのすその長いロンジーを着ていました。兵隊は日曜の外出で慰安所に行くんですが、原則としてサックを使うんです。サックは申し出ると支給されました。もちろん、タダでした。・・・払った金は確か、2円か、3円だったと思うな。軍票でね。ルピーでした。慰安所の建物はバンガロー風で、現地の古い建物でした。イギリス人あたりが使っていたのを慰安所にしたということでした。 |