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資料の詳細

出典種別 目撃証言
現在の地域情報マンダレー管区 ピンウールウィン県 ピンウールウィン郡区
資料にある地域情報メイミョウ
慰安所があった時期
記載内容井上が妻セツ子とともにアトラス丸でラングーンに着くや、港に待ち受けていたのは軍の参謀だった。・・・参謀の指示により井上が配属されたのは、タウンギーだった。そこで1ヵ月ほど営業し、後にメイミョウに移った。・・・メイミョウには、慰安所が何軒かあった。井上と一緒にビルマにきた日本人経営者の「第一ふるさと楼」には日本人慰安婦が10名ほどいた。将校専用の慰安所だった。ほかにも、朝鮮人慰安婦ばかりの「名月楼」、日本人芸者がいた「萃香園」「清明荘」などもあった。井上が経営していた「第二ふるさと楼」には、朝鮮人慰安婦が12名いた。ほとんどが、20代前半の女性で、セツ子の出産を助けた「よし子」をはじめとして、「あけみ」「ひろ子」「ゆき子」「銀子」「みのる」「なお子」「まさえ」「玉春」「ひとみ」など、それぞれに日本名の源氏名がつけられた。女性たちの名前の札が慰安所の入り口にかけられ、兵隊たちはその札をみて女を指名した。ここには菊兵団、龍兵団、弓兵団の兵隊たちがやってきた。部隊ごとに曜日が割り当てられていて、1人の慰安婦が1日に相手にした兵隊の数は、14,5名ほどだったという。軍が用意してくれた慰安所は、それぞれの部屋をアンペラを組んだついたてで仕切り、カーテンがかけてあるだけのものだった。そこに慰安婦が1人ずつ入れられた。「料金は、兵隊の場合1時間1円50銭。『一発』の場合は、1円20銭ですよ。一発をはようやらせて帰らすためにも、つぎからつぎへといらっしゃい、いらっしゃいということになるけど、女の体がきつかったでしょうなぁ。ひどいときは、1日20人ぐらいとらんといかんかったからねぇ」井上は生前、「漂泊の果てに」(熊本放送)の中で、そう話している。
証言者井上菊夫
証言者属性慰安所経営者
部隊名菊兵団・龍兵団
資料タイトル従軍慰安婦と十五年戦争 ―ビルマ慰安所経営者の証言
著者、公文書発信者など西野留美子
公文書宛先
発行日1993.5.30
発行所明石書店
ページ108-109
出典備考
備考 現在の地図のマンダレー東方にメイミョーMaymyoがある。ピンウールウィンPyin Oo Lwinとも呼ばれている。ちなみにアジア歴史資料センター:C141060191800のビルマ50万分の1の地図では「マイミヨ」とある。日本軍はメイミョウ、明妙などと呼んでいた。
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