証言,公文書等,様々な文書を徹底調査

資料の詳細

出典種別 兵士の回想録等
現在の地域情報マンダレー管区 ピンウールウィン県 ピンウールウィン郡区
資料にある地域情報メイミョウ
慰安所があった時期
記載内容メイミョウの慰安所は、いづれも郊外の別荘であった建物を使い、女たちの部屋も相当整っていた。外出日の兵たちも、僅かの者を除いて最大の楽しみは慰安所であった。1軒は日本人慰安婦のみの将校専用で、その他は半島出身の女たちで、下士官、兵は外出日を待ってここにでかけた。・・・
「私、横浜で生まれたの」マリ子がポツンと言った。・・・マリ子の両親は半島出身者だったが、横浜で相当多くの半島人を使い土建業をやって裕福な生活だった。マリ子が女学校3年の春、工事現場で大事故があり、父親と使用人2人が即死してしまった。事故処理が終った母子4人には僅かの金が残ったが、働こうにも良い職場がなく、やむなく下関に残している祖父の下へ帰らなければならなかった。下関の祖父の住む半島人長屋は、粗末な小さい暗い部屋でいやな臭いがしていた。・・・然しその日の生活にも困るようになったマリ子と母親は、近くのお爺さんからもぐさ作りを教わり、朝早くから蓬採りを始め、もぐさを作って漢方薬屋に売りに行った。・・・その頃、母親が親しくしていた春川節子さんという方から、「対馬の陸軍病院で雑役婦を募集しているから行かないか」という話があった。仕事は傷病兵の洗濯奉仕やそうじなどの軽作業で、給料は月30円、仕度金として20円、宿舎糧食衣服等は現地支給で、志願者が相当多いとのことだった。・・・信用できる方の世話なので、マリ子は母親と相談し早速志願した。・・・マリ子は見送りの人々に手を振って、下関港の御用船に乗りこんだ。一緒に志願した人たちは百名だった。・・・どうやら船は南下してるらしく、みんな騙されてどこかへ連れて行かれることがもう疑いのないものとなった。みんなが怒って騒ぎだしたが、船は夕刻海南島に着き、上陸させられ、3班に分けられ車で楡林の3ヶ所の慰安所に送りこまれてしまった。・・・それからシンガポール・ラングーン・メイミョウと兵団の進むがままに、流されるようにメイミョウまでやってきた。
証言者山口彦三
証言者属性日本軍兵士
部隊名尾能部隊
資料タイトルビルマ平原 落日の賦
著者、公文書発信者など山口彦三
公文書宛先
発行日1987.10.5
発行所まつまや書房
ページ20-21、47-48
出典備考
備考 現在の地図のマンダレー東方にメイミョーMaymyoがある。ピンウールウィンPyin Oo Lwinとも呼ばれている。ちなみにアジア歴史資料センター:C141060191800のビルマ50万分の1の地図では「マイミヨ」とある。日本軍はメイミョウ、明妙などと呼んでいた。
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