出典種別 | 兵士の回想録等 |
---|---|
現在の地域情報 | マンダレー管区 ピンウールウィン県 ピンウールウィン郡区 |
資料にある地域情報 | メイミョウ |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | そんなわたしが、現実に童貞を捨てたのはメイミョー駐屯中、火砲と牽引車の整備のために出張したラングーンの、日本人女性の慰安所においてである。・・・戦線の各地で、日本人慰安婦は、将校の独占物となり、下士官兵にとって、なつかしい故国の香りを漂わせている女たちは、所詮高根の花だった。そのよい例は、メイミョーの清明荘とラングーンの翠香園の場合である。清明荘は、わたしたち野戦重砲兵大隊が、国軍随一の機械化砲兵としてガダルカナル救援に赴くためにメイミョーを離れたあと(実際には、戦況の決定的悪化から救援作戦は中止となり、途中のチモール島に上陸ということになったが)、日本の芸者(兼慰安婦)50名を擁して業者が開いた将校専用の料亭であり、主として第15軍に所属する百名内外の高級将校(佐官以上)に奉仕した。「清明荘」とは、第15軍司令官牟田口廉也中将がつけた名前であり、中将自身、参謀や幕僚たちと等しく、軍属の女(オンリー)がいるとうわさされていた。勤務の終わったあと、高級将校たちは清明荘にやってきて、畳・ふすま・障子といった日本式内装を施したしゃれた部屋で盃を傾け、脂粉の香ゆたかな女を抱いた。昭和19年元旦の夕方、こうした将校どもは晴れ着姿の芸者たちと、それぞれ兵隊の運転する乗用車に分乗し、酔顔を風になぶらせて、メイミョーの街をパレードした。・・・ さて、高級将校のことはさておき、下級兵のわたしにとって忘れられないのは、まず、メイミョーのビルマ人慰安婦マテニューのことである。メイミョーの裏町に、ひどくみすぼらしい慰安所があり、そこに、マテニューはいた。4か月にわたるメイミョー駐留の間、わたしは3度、このほっそりした褐色の女の部屋を訪れ、たまゆらの平安を味わった。 |
証言者 | 秋元実 |
証言者属性 | 日本軍兵士 |
部隊名 | 野戦重砲兵第3連隊 |
資料タイトル | かたりべの群れ2 私の戦時体験 |
著者、公文書発信者など | 沼津戦後の戦友会 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1988 |
発行所 | 私家版 |
ページ | 5-7 |
出典備考 | 秋元実「慰安婦と兵隊」 |
備考 | 現在の地図のマンダレー東方にメイミョーMaymyoがある。ピンウールウィンPyin Oo Lwinとも呼ばれている。ちなみにアジア歴史資料センター:C141060191800のビルマ50万分の1の地図では「マイミヨ」とある。日本軍はメイミョウ、明妙などと呼んでいた。 |