| 出典種別 | 兵士の回想録等
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| 現在の地域情報 | マンダレー管区 ピンウールウィン県 ピンウールウィン郡区 |
| 資料にある地域情報 | メイミョウ |
| 慰安所があった時期 | 1945年1月 |
| 記載内容 | トング―には慰安所もなかったようだ。そのため、われわれ若者には、あの方は我慢が出来ない。特に私などは兵隊に来る前はマドロスで、港々に女ありでその方の猛者だと思っている。・・・私も北野分隊で、どのような経路でメイミョウへ行ったのか忘れたが、とにかく高原であることには相違ない。・・・ここには酒保らしきものがあって、一口まんじゅうがあった。珍しがって、たくさん買って食べた。店の名前は長崎屋だったと記憶している。後日外出許可をもらって、意気揚々と慰安のため出陣する。ところが、ここにもやはり将校用と兵用があって、われわれ兵隊はなんとなく安物を買わされるような気がした。思い切って偉方用の所で用を済まそうとしたら、どなられた。なんだか損をした気になった。いろんな思いを秘めて、いよいよイラワジへの出陣となった。たしか20年の正月ころだと思われる。 |
| 証言者 | 阿部三郎 |
| 証言者属性 | 日本軍兵士 |
| 部隊名 | 歩兵第16連隊通信中隊 |
| 資料タイトル | あやめ戦記 歩兵第十六連隊と太平洋戦争 |
| 著者、公文書発信者など | あやめ戦記刊行会 |
| 公文書宛先 | |
| 発行日 | 1975.11.10 |
| 発行所 | あやめ戦記刊行会 |
| ページ | 450 |
| 出典備考 | 阿部三郎「トングーとメイミョウ」 |
| 備考 |
現在の地図のマンダレー東方にメイミョーMaymyoがある。ピンウールウィンPyin Oo Lwinとも呼ばれている。ちなみにアジア歴史資料センター:C141060191800のビルマ50万分の1の地図では「マイミヨ」とある。日本軍はメイミョウ、明妙などと呼んでいた。
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