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資料の詳細

出典種別 兵士の回想録等
現在の地域情報マンダレー管区 ピンウールウィン県 ピンウールウィン郡区
資料にある地域情報メイミョウ
慰安所があった時期1943年8月
記載内容昭和18年8月ー。他の太平洋戦線はいざ知らず、ビルマはバー・モウ博士による新政府が樹立され、米英に宣戦布告した。8月1日のことである。現地軍の士気は高かった。シャン高原メイミョウにいた師団司令部は、ビルマ鉄道の最北端、カチン州の首都ミートキーナに進出し、いよいよ戦機は熟してきた。われわれもマカイン南方セトンのジャングルで、フーコンへ再出動の準備に没頭していたころのことである。重大?ニュースが飛び込んできた。タウンジーやメイミョウで、常に師団司令部と共にいた、“久留米翠香園”の奇麗どころが、ミートキーナの司令部慰問の途中、今日の昼ごろ、マカインの第2大隊の慰問を終り、午後には連隊本部のモガウンに行くというのである。早速、連隊本部に電話した。セトンにも翠香園を廻してくれ、と頼んでみたが「連隊ではそんな権限がないから、とても無理だ」という。「それでは、私自身が交渉して相手が承知すればセトンに泊らせてよいか」というと、「先方さえ承知すれば、かまわない」との返事。
証言者西正義
証言者属性日本軍兵士
部隊名「菊」第18師団司令部
資料タイトル西機関・ビルマを征く
著者、公文書発信者など西正義
公文書宛先
発行日1987.9.20
発行所サンエイプロス
ページ137
出典備考
備考 現在の地図のマンダレー東方にメイミョーMaymyoがある。ピンウールウィンPyin Oo Lwinとも呼ばれている。ちなみにアジア歴史資料センター:C141060191800のビルマ50万分の1の地図では「マイミヨ」とある。日本軍はメイミョウ、明妙などと呼んでいた。
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