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資料の詳細

出典種別 兵士の回想録等
現在の地域情報ザガイン管区 カタ県 インドウ郡区
資料にある地域情報インドウ
慰安所があった時期1943年
記載内容たとえば青森市に住まれる花田二徳元軍医は、召集された昭和18年末、ビルマのインドゥ所在のビルマ方面軍第124兵站病院に勤務されていたとき、「近くの竹藪に朝鮮人慰安婦で妊娠しているのがいるから診てやってくれ」と頼まれたことがある。約2キロ離れた地点である。まだ連合軍の本格的反撃のはじまる前の比較的静かな時期だったが、診察の結果は妊娠4ヵ月であった。花田軍医はただちに兵站上司である病院長に中絶手術が必要であることを報告したが、かえってきたのは病院長の罵声だったという。「ここは軍隊だぞ!」この「ここは軍隊だぞ」には2つの意味があった。ひとつは、当時の日本で中絶手術は格別な理由、医学的に中絶せねば母体の生命が危いときなど以外は法律で禁止され、それ以外の理由で手術を行なえば堕胎罪の名のもとに、刑法により罰せられることになっていた。院長は、日本国内法のおよぶ大日本帝国陸軍の兵站病院で国禁をおかすことができるかといったのである。いまひとつは、前出の玉兵団軍医部長の発言と同じく、軍管轄以外の者に手術をほどこすことへの拒否である。軍人でも軍属でもない慰安婦に、手を差しのべる必要はないということである。犬畜生のことは放っておけという考えである。
証言者花田二徳
証言者属性元軍医
部隊名ビルマ方面軍第124兵站病院
資料タイトルオンナたちの慟哭  同時代叢書
著者、公文書発信者など千田夏光
公文書宛先
発行日1981.3.10
発行所汐文社
ページ44-45
出典備考注:インドウ所在の第124兵站病院。このインドウとはどこか。アジア歴史資料センターで検索すると、第53師団第4野戦病院関係(C12122447300)の資料がヒットする。これによると、1944年7月に病院開設の命を受け、ウントウに本院を、インドウとカーサに分院を開設している。「第124兵站病院「インドウ」患者療養所」がインドウの分院であり、7月22日頃開設されている。ウントウはマンダレーの北方にあり、そのウントウの北東にインドウがある。アジ歴のその他のインドウの検索結果も、いずれもビルマの北部のインドウを示している。
備考
現在の地図のミッチーナの南西方向にインドーがある。
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