出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | 茨城県 土浦市 |
資料にある地域情報 | 土浦 |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 霞ヶ浦航空隊が出来たのは大正10年だが、その時期に合わせて花街が出来たんだ。それまでは土浦の町のそっちこっちに散らばっていた女郎屋だの芸者屋、待合を強制的に一カ所に集めた。そうしないと、いざというとき兵隊が方々に散らばっていたんでは非常招集するのにも困る。取り締まるのにも支障があるというんで、それまでは湿地帯で誰も住めなかった場所を埋め立て、そこに新しくニ業地を作ったというわけだ。そうすると、外からもそれは大勢いろいろな人間が集まってきた。海軍が出来たというんでひと儲けしようと企む人間がわんさかやって来て、それで駅の周辺からこの一帯がどんどん賑やかになって、最盛期には女郎屋が約80軒、待合が20軒も出来た。敷島町、大和町、朝日町、匂町、栄町、小桜町なんぞが出来て実に華やかになった。・・・私も若い時分にはずいぶん色いろな経験をしたが、昭和15年には取締まられる方の役目は卒業して、取り締まる役目の巡邏伍長を拝命していたというわけなんだ。士官や下士官は普通の日にも2日に1回あるいは4日に1回外出できたが、兵隊は週末しか外出できない。週末になると、3000人の兵の半分ずつが土日に別れて「半舷上陸」というのが許可される。つまり1500人ずつ土日に分かれて交代で町に出るというわけだ。・・・ 兵は各分隊ごとに並んで、持ち物を左手のひらにのせて直立不動で検査を待っている。その手のひらにのっているのは、ルデーサックとシュークリームだ。ルデーサックというのはコンドームだな。陸軍ではこれを「突撃一番」と呼んでいた。シュークリームというのは陸軍では星秘膏と呼んでいた性病予防の軟膏で、使用前に局部に塗る。これを持っていないと外出は禁止だ。 |
証言者 | |
証言者属性 | |
部隊名 | 霞ヶ浦航空隊 |
資料タイトル | いま老人たちが重い口を開く 戦火の記憶 |
著者、公文書発信者など | 佐賀純一 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1994.12.20 |
発行所 | 筑摩書房 |
ページ | 186-188 |
出典備考 | 海軍が指定した慰安所の可能性はあるが情報不足。 |
備考 |
現在の地図では土浦市は、霞ケ浦の西側にある。 ※日本軍慰安所マップの地点としては反映させていない。
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