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資料の詳細

出典種別 被害証言
現在の地域情報千葉県 木更津市
資料にある地域情報木更津 六軒町
慰安所があった時期1941年
記載内容私が鈴木楼に行ったのは、昭和16年のことです。私は23歳になっていました。三軒町には、鈴木楼のほかにあと2軒の遊郭があり、女は3人から5人ぐらいの小さな家でした。六軒町は航空隊ができてから建てられたものですが、三軒町は昔からあった遊郭です。鈴木楼には、私のほかにも親に売られて秋田から来た娘もいました。主人は私に『登志子』という名前をつけました。ほかにも『かおる』『絹子』『信子』といった女性がいました。・・・下士官は1日おきに外泊ができ、日曜日に限らず平日でもやってきました。来ても戦争のことは一言も話しませんでした。・・・ただ、兵隊が大勢来た日など、兵たちはぼっそり『明日、敵地に行くんだ』といったものです。そうすると私もついつい慰めてあげたいという気持ちになったものです。あの頃は、こんな商売でもお国のためになるんだと思っていました。1時間2円で、1日10人から12,3人ぐらいがやってきました。一晩に泊まりが5人いて、かけもちで回ったこともあります。いつも眠くて眠くて、朝飯を食べるとすぐに眠ってしまうのですが、すぐにまた起こされて。鈴木楼に行ったとき、私は処女でしたからとても辛かった……口では言えません。でも逃げ出したら家族に迷惑がかかると思うと、それもできませんでした。
証言者登志子(源氏名)
証言者属性日本人被害者
部隊名第2海軍航空廠
資料タイトル日本軍「慰安婦」を追って
著者、公文書発信者など西野留美子
公文書宛先
発行日1995.2.11
発行所マスコミ情報センター
ページ28-29
出典備考注:当時木更津には、三軒町と六軒町という慰安所街があった。三軒町にあった慰安所には、一般客とともに軍人も来ていた。六軒町にあった慰安所は「純粋な」軍慰安所であった。ここでは六軒町をとった。
備考 木更津市は東京湾の東海岸沿いにある。現在、六軒町の地名はない。現在の地図の「永井作」付近と思われる。
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