出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | 宮崎県 宮崎市 |
資料にある地域情報 | 宮崎県 宮崎基地 |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 5月になって、基地作りの為本隊と別れて大分県築城に向け出発。2ヶ月を新田原で過したが、6月には又宮崎に復帰した。続いて宮崎基地は出雲の大社に転進することになり、事実上の撤退であったが、それでも敗戦の不安は少く、「何となく勝つ」ような気持であったから不思議である。此の頃の司令は浅田昌彦大佐であったが、此の基地移動には私の仕事で大きな問題が伴った。宮崎の海軍部隊専用の慰安所は、士官と下士官兵用に区別されていて、周辺の陸軍部隊は絶対に立寄れないことになっていたので、以前から陸軍の反感を買っていたのであろう。士官用5軒、下士官兵用10数軒の料飲店のうち、士官用の方に蚊帳を貸与した処、陸軍の方で天皇陛下の需品を花柳界に貸与するとは怪しからぬ奴、と全部引上げて行ったので、特攻隊員が安眠休息するのに必要だから貸すのだと、即刻取り返して又貸与した為対立が表面化してきた矢先き、出雲大社基地に移動となり、慰安所は全部陸軍に明け渡して呉れるかと思いの外、士官の方2軒は部隊と共に出雲に移動し、其の他は全部此を機に廃業すると申し出てきたので、陸軍の追求が更に激化した。・・・ 出雲今市で料亭2軒を解放して貰い、改修の上これに入居させ、8月11日開店の披露宴を市関係者と士官室全員招待の上開催したが、愈々明日から開業という8月15日終戦となったことは心残りの人も居たことだろう。 |
証言者 | 池上秀高 |
証言者属性 | 海軍航空隊 主計将校 |
部隊名 | 第762海軍航空隊 |
資料タイトル | 二年現役第五期 海軍主計科士官戦記 |
著者、公文書発信者など | 墨水会 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1970.6.10 |
発行所 | 墨水会 |
ページ | 44 |
出典備考 | 池上秀高「海軍生活を顧みて」 |
備考 | アジア歴史資料センター:C13120432000の地図に宮崎基地が記されている。現在の地図を見比べると、その位置は大淀川の南側、宮崎市内である。 |