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資料の詳細

出典種別 その他
現在の地域情報鹿児島県 鹿屋市
資料にある地域情報鹿屋
慰安所があった時期未記載
記載内容鹿児島ではこんな思い出がある。鹿屋という町に海軍航空隊があった。後年真珠湾攻撃をやったあの航空隊である。・・・いつ死ぬかわからない境遇だから、死ぬ前に”男”になりたちいう気持ちも強かったのだろう。ところが適当な遊び場所がないものだから、町の娘たちに被害が及ぶ。娘の親たちは怒って苦情を持ち込む。隊長の石井静大佐もこれには弱って私のところへやってきた。「こういうことを頼むのはあなたで三代目の警察部長だが、なんとか遊び場所をつくってくれないだろうか」要するに”赤線”をつくってくれというのだ。当時、内務省は人身売買をうるさく取り締まっていたので、新しく遊廓を設置するなんてとてもむずかしいことだった。・・・そこで「よろしい、なんとかしましょう」と言って一計を案じた。それは郊外の町有地約5万平方メートルにダンスホールをつくる計画だ。各ダンスホールのダンサーは客である少年航空兵と意気投合の結果、別室にご案内する。つまり、今しきりにその方面に利用されている”恋愛関係の成立”という形式をとることにした。「特珠飲食店」というのはこの時初めてつけた名前である。しかし、私はここに働く女たちが雇い主に搾取されることなく、年期をつとめあげたら貯金通帳が持って帰れるようにと経営者に仏教関係者をもってくることを考えた。・・・しかし残念ながらこの話は実らなかった。しかたがないので町長の推薦する50人の業者にこれを任せた。
証言者坂信弥
証言者属性鹿児島県警察部長
部隊名鹿屋 海軍航空隊
資料タイトル私の履歴書 第18集
著者、公文書発信者など坂信弥
公文書宛先
発行日1963.1.1
発行所日本経済新聞出版社
ページ149-150
出典備考坂信弥は、1936.4.25-1937.7.8まで鹿児島県警察部長。軍による依頼で警察部長が実施しているが、軍の管理下かはわからない。
備考 坂信弥は1936.4.25-1937.7.8まで鹿児島県警察部長。
※日本軍慰安所マップの地点としては反映させていない。
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