記載内容 | 戦争当時の桑江は、桑江ヌ前・昭和通り(桑江ヌ中)・桑江ヌ村・桑江ヌ後と4区に分かれていて、それぞれに区長もいた。城間という酒屋の方とか、大城浦吉さんなどが区長をなさっていた。僕らの家《田場小》は桑江ヌ前にあった。・・・武部隊が出て行った後、昭和19年の十・十空襲前だった。桑江の方に駐屯していた「石部隊(第62師団の通称)」の兵隊が、僕らの家にやってきた。僕らの家は桑江では一番大きかったから、「この家を慰安所に使用するので、一刻も早く立ち退いてくれ」と、強制的に言ってきた。「急にそんなことを言われても、ほかに住む所もないし、困る」と言うと、「これは軍の命令だ」ということだった。・・・母屋は坪数が34坪で、店を営んでおり、店の分は28坪という計算だったが、軍はその店の分を慰安所に使うということだった。・・・10月空襲で辻街が焼けたあと、7,8名のジュリ(娼婦)が慰安婦として配属されてきた。・・・食事をつくるのは隣の《新里小》で、そこの長女姉さんたちがやっていたと思うが、管理者は沖縄の男の人だった。・・・この慰安所は、最初は特攻隊が使ってた。特攻隊といっても飛行機のではなくて、船舶のだ。現在も白比川の岸辺に残っているが、そこに海上特攻艇の秘匿壕があった。その連中の慰安をするために、最初は設けられたようだ。・・・慰安所は、特攻隊の次に石部隊が使用した。 |