記載内容 | そのころ、廃墟になった那覇市内にも兵隊専用の慰安所が出来た。交代で外出する兵隊に大塚曹長から「つる」「かめ」などと書いた紙片が手渡され、兵隊たちはいそいそと陣地の坂道を降りて行った。「つる」「かめ」とは相方に決められた慰安婦の名前である。10月10日の空襲で立木1本残っていない荒涼とした辻遊廓の焼け跡に、筵囲いの小さな掘立小屋が数十戸ならんでいた。小屋の軒にはそれぞれ相方の名を記したボール紙がぶら下がっており、おなじ客を割り当てられた兵隊たちが、入口の前に一列になって順番を待っている。五分隊の永井もその内のひとりであった。中には列を無視して割り込む厭なやつもいたが、ここでも星の数がものをいい、初年兵は文句がいえなかった。やがて順番が来て受付の兵隊に紙片を渡し、筵をめくってはいると、2坪ほどの地面に毛布が敷いてあり、天幕替わりの筵の間から差し込む薄明かりの下で、裸身の朝鮮人慰安婦が股をひろげて待っていた。片隅では、終わったばかりの兵隊が軍衣のボタンを忙しげにかけて出て行った。永井がまだ軍袴を脱ぎ終わらぬうち、筵の外から「こら初年兵、早くやらんか」と怒声がとんだ。怒鳴られるまでもなく、ことはあっという間に済んだ。女は寝たまま、始末した紙屑を枕元の芋笊の中へポイと投げ込み、「おつぎよ」と受付の兵隊に声をかけた。慰安代金は月末、給料から差し引かれた。「あれで1円50銭は高すぎる」と永井はぼやいた。 |