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資料の詳細

出典種別 目撃証言
現在の地域情報沖縄県 那覇市 首里赤平町
資料にある地域情報首里
慰安所があった時期1945年4月
記載内容昭和20年4月1日、米軍の沖縄上陸戦が始まった。「北に行け。」との軍命があるとかで、あてもなく歩いていたら夜が明けて、左側の海に、40数隻の軍艦から中飛行場を中心に撃って来るのが見えた。とても通り抜けられないと思って、首里に引き返した。元富原医院が日本軍に接収されていて、遠縁に当たる兼久楼の芳子が将校慰安所をやっていて、石穴壕もあり、井戸、野菜畑もあることを知っていたからである。芳子は喜んで迎えて、女子供だけで心配だから是非一緒に居てくれ、食糧も充分あるという。渡りに船ととどまることにした。女24人、芳子お家族5人が住んでいる完全壕である。目と鼻の虎頭山に布陣している砲兵隊将校の現地妻達、この人たちが食事の世話一斉してくれるので、ここでこのまま戦争が終るなら有り難いなと思った。
証言者千原繁子
証言者属性沖縄県立女子師範学校衛生婦要請所講師
部隊名虎頭山布陣の砲兵隊
資料タイトル随想 カルテの余白
著者、公文書発信者など千原繁子
公文書宛先
発行日1978.9.28
発行所若夏社
ページ180-181
出典備考10・10空襲後、千原繁子は遠縁を頼って、首里にやってきた。日本軍が病院を接収し、遠縁に当たる芳子が将校慰安所をやっていて、そこには石穴壕があるのを知っていたためである。その壕には辻の「兼久楼」のジュリが24人と芳子の家族がいた。慰安所の常連は、久場町の(虎瀬山とも書く)陣地の野戦重砲第23連隊(球3109)の将校たちであった。
備考 古賀徳子「沖縄戦における日本軍「慰安婦」制度の展開(3)」(『季刊戦争責任研究』第62号)には「10・10空襲後、女医の千原繁子が遠縁に当たる芳子を頼って、この慰安所の壕にやってきた。壕の中には辻の「兼久楼」のジュリが24人と芳子の家族がいた。慰安所の常連は、久場町の陣地の野戦重砲第23連隊の将校たちであった」とある。首里赤平町に虎瀬公園があるが、ここが虎頭山である。
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