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資料の詳細

出典種別 目撃証言
現在の地域情報沖縄県 那覇市 字高良
資料にある地域情報向かいの安次嶺さんの家
慰安所があった時期1944年10月
記載内容あそこは、我が家の貸家だったんです。同じ敷地に私の家ともう一棟、Mさんの楽屋と山城さんという床屋さんに貸してあったんです。そこを追い出して、兵隊が家の中を作り替えていました。宮城との堺というよりは水がきれいだったんで選んだんじゃないですか。はじめに、二つあった井戸の水を調べて、ここにすると言っていましたから。それと大きな家だったんですよ。10・10空襲の後です。女の人たちは20名位、みんな辻のジュリだったはずですよ。夫婦の経営者で、女たちのごはんの世話もしていました。「ごはん食べないと体がきついよ」って言っていました。・・・
それと、ここは海軍の上川部隊といっていましたが、ちょうどこの向かいの安次嶺さんの家は陸軍の慰安所でした。
慰安所分布表
市町村名:那覇市 字名:高良 建物:民家 期間:S19.10.10 慰安婦・人数:ー 慰安婦・出身地:沖縄 営業形態:ー 軍隊名:陸軍 証言者・氏名:長嶺喜代 証言者・出典:直接取材 備考:安次嶺宅
証言者長嶺喜代
証言者属性
部隊名陸軍
資料タイトル第5回全国女性史研究交流のつどい報告集
著者、公文書発信者など賀数かつ子
公文書宛先
発行日1994.8.24
発行所全国女性史研究交流のつどい実行委員会
ページ21, 29
出典備考注:同じ敷地内の長嶺さんの貸家が慰安所にされた。ここは海軍の川上部隊。古賀徳子「沖縄戦における日本軍「慰安婦」制度の展開(3)」(『季刊戦争責任研究』第62号)には「字高宮城(現・字高良)の慰安所は10・10空襲の後、大きな民家を利用して開設された。海軍の川上部隊がこの家の借家人を追い出し、屋内を慰安所用に設備工事しをしてつくりかえた。建物の所有者であった長嶺喜代によると、軍が家賃がわりに米を届けたので、長嶺家は米に不自由せずにすんだ。休日に慰安所の前に兵隊が並んでいるとき、馬に乗った将校が順番を指示していたという。「慰安婦」は辻のジュリが約0人いて、夫婦の経営者(抱え主)に連れて来られた。彼女たちは「ごはん食べないと体がきついよ」と話していた」とある。この川上部隊の慰安所の向かいの安次嶺さんの家が陸軍の慰安所とされた。
備考 那覇市西端の海岸沿いに高良がある。現在は字高良であるが、当時は、小禄村字高宮城であった。戦後、高良、宮城の集落のほとんどが米軍用地として接収され、住民は立ち退きを命じられた。現在は「航空自衛隊那覇基地」となっている。「今昔マップ on the web」の那覇市(1919年地図)の西端付近に高宮城がある。現在の地図の宮城もしくは高良である。
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