記載内容 | 伊佐キヌさんは当時20歳で女子青年団であった。南大東村北東部の字新東の沖山峯松さん宅に10人の朝鮮慰安婦が住み、そのころ豊部隊約3千人がそこに駐屯していたが、その第3大隊(隊長・吉田少佐)を相手としていた。キヌさんら女子青年団6人がこの大隊の軍服を「補修」するために徴用され、ミシンづかいをしていた。10人の朝鮮慰安婦たちはみんな20代でモンペ姿であった。行先を知らされないまま南大東へ連行されてきたといっていた。朝鮮慰安婦たちは軍と起居を共にし、連隊本部で食事をとっていた。慰安所はいくつかの小部屋に仕切られ毎週日曜日となると朝から兵隊が長い列をつくっていた。慰安所は煙突の過熱が原因で全焼した。怪我人はいなかったが彼女らは着のみ着のままだった。米軍の空襲、爆撃も激しくなっていたので、そのころからは避難壕の中の生活となった。2人の慰安婦は田村連隊長の専従で、峯松さんの家から連隊長の住家に通っていた。連隊長づきの慰安婦はとび抜けて美人だといわれ、その美ぼうを絵に書くようにと、ある美術学校出の2等兵に連隊長から指示があったという。連隊長は新東にあるかわらぶきの大きな家に住み、洞窟の中にも立派な部屋をつくっていた。慰安婦たちは炊事の手伝いもしていた。民家は全部兵舎に使われ、住民は追い出されて洞窟を住家としていた。慰安婦も住民も自分の壕から他の場所へ行けない程、空襲や艦砲が激しかった。それでも、その合間に彼女たちはトウガラシを求めて朝鮮風の長いスカートをはき、風呂敷包みを持って2~3人ずつ民家を訪ね、唐辛子をもらっていた。 |