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資料の詳細

出典種別 目撃証言
現在の地域情報沖縄県 宮古島市 平良字下里
資料にある地域情報地盛
慰安所があった時期未記載
記載内容戦時中、小・中学校の代用教員をしており、自宅近くに慰安所があった。妻は結婚の時にミシンを持ってきていたので、慰安婦だった女性たちの洋服を直してやったことがある。彼女たちはしょっちゅう来ていた。朝鮮人は30から40歳くらいじゃなかったかね。やってくるとよく食べ物なんかあげていた。近所の子どもたちはサックを拾ってフーセンにして遊んでいた。当時、23か24歳くらいで小学校、中学校も代用教員をしていた。農業が専攻だったから。妻は慰安婦と仲良くしていた。朝鮮人に対し、私たちは、親しみの気持ちがあった。沖縄もいわば、その先には「琉球」だったから偏見の目で見られたから。ですから朝鮮も可哀相だなと思った。・・・1人か2人連れで来ていた。(外出は)自由だったように思う。自由というよりも何か彼らにも休みがあったのではないかな。アリランの歌を歌っているのを聞いたことがある。「アリラン・アリラン・アラリヨ」って歌っていた。
証言者新城定吉
証言者属性代用教員
部隊名
資料タイトル戦場の宮古島と「慰安所」12のことばが刻む「女たちへ」
著者、公文書発信者など日韓共同「日本軍慰安所」宮古島調査団
公文書宛先
発行日2009.9.6
発行所なんよう文庫
ページ122-126
出典備考現地調査:上里清美、「韓国・沖縄・日本共同調査団」(団長:尹貞玉)
備考 現在の宮古島の行政区画に地盛はない。「宮古島全域ガイドマップ」には宮古島空港の南が地盛である。この付近の行政区画は平良下里である。現在の地図の宮古島の北部半分ほどが平良である。沖縄県立宮古総合実業高等学校を中心に南方向へ延びる一画が平良下里である。佐久田玄徳、新城定吉は同じ場所の証言している。地盛にはバラック2棟以上があったようだ。
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