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資料の詳細

出典種別 目撃証言
現在の地域情報沖縄県 宮古島市 城辺字下里添
資料にある地域情報佐事川
慰安所があった時期1944年8月
記載内容昭和19年8月ぐらいに兵隊はきていたね。佐事川嶺の下に師団司令部があった。それから、病院は佐事川嶺の裏側にあった。土底からして北側によ。宮古郡の病院で「師団司令部の病院」といっていた。病院は大きかったね。長い家で茅葺きで造ってあった。私の山も畑も全部茅葺きの兵舎だったよ。私の山だけでも兵舎は6か所造ってあったのに。そして、陣地を掘ったら水が出ていたので「ミズヌンガー」といっていた。そこはフチャ(粘土層)だったから、なかなか水がひなかいさぁ。部落からは少し離れているけどね。
慰安所は城辺小学校を壊してきて佐事川に造ってあった。兵隊が馬車を動員して材木を持っていった。馬車の主がそのように言っていたよ。兵隊がきてすぐだったから、昭和19年の8月ぐらいには慰安所はできていたかなぁ。慰安婦の数は、はっきり知らんけど、部屋だけは知っているよ。12部屋ぐらいね。両方に6部屋ぐらいあって、真中は廊下だった。
証言者荷川取松金
証言者属性地元住民
部隊名
資料タイトル城辺町史 第二巻戦争体験編
著者、公文書発信者など城辺町史編纂委員会
公文書宛先
発行日1996.3.30
発行所城辺町役場
ページ337-338
出典備考荷川取松金「漁撈班として奉仕する」
備考 下里愛子、久貝吉子、U、Y、国仲繁男、荷川取松金、川平フジは下北にあった同一の慰安所を証言していると思われる。現在の地図の宮古島の中央付近に、宮古空港の脇を通る平良・城辺線が友利・砂川線と分岐する地点(野原越交差点の少し南)があるが、その分岐点の少し南にツガ川があり、その東方に佐事川がある。慰安所はこの佐事川の少し北である。沖縄県農業研究センターの南にあたる。慰安所の位置は、宮古市の行政区画上は、城辺字下里添である。
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