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資料の詳細

出典種別 目撃証言
現在の地域情報沖縄県 宮古島市 城辺字比嘉
資料にある地域情報城辺町の比嘉部落入口の城辺街道
慰安所があった時期1944年7月
記載内容昭和19年の7月、旧満州チチハルから第28師団と一緒に宮古にやってきた20代の若い朝鮮女性たち20人が、城辺町の比嘉部落入口、城辺街道の慰安所に入った。西城小中学校からわずか500メートル、下の島という人里離れた森林に、カヤ葺のバラックで住民とは隔離されていた。
小さな宮古島には陸海軍あわせて約3万人の兵隊と、1万人の疎開者を除いた民間人約6万人の計9万人がいた。そのうちの3千人がマラリヤや戦災で死んだが、この恐ろしいマラリヤの巣窟として知られる比嘉部落に慰安所が置かれていたのである。
当時、西城国民学校には陸軍駒部隊(4千名)の旅団司令部が駐屯し、各字に散在した部隊が壕堀りやタコツボ作りに当っていた。一部は比嘉部落にカヤブキ小屋を作って宿舎とする兵隊もいた。
2軒の慰安所前には昼夜兵隊が行列をつくって並んでおり、不思議に思われていた。近くに住む人でさえ近寄っては見てない。
與那覇寛長さんは1945年10月に台湾へ疎開した家族を連れて行って、翌年2月、城辺へ帰ると、もう慰安所はなかった。
証言者福地曠昭
証言者属性
部隊名独混第60旅団
資料タイトル哀号・朝鮮人の沖縄戦
著者、公文書発信者など福地曠昭
公文書宛先
発行日1986.6.1
発行所月刊沖縄社
ページ162
出典備考
備考 K、M、山城三郎、前里充宏、福地曠昭は同一の慰安所を証言していると思われる。宮古島南部東半分が城辺である。城辺の海岸沿いに比嘉がある。行政区画上は、宮古島市城辺字比嘉である。
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