記載内容 | 当時自宅のすぐそばに長い慰安所があってよく見ている。僕らは小学校5年生であったから、ここにいたのは「挺身隊」と聞いていたけど、実際は慰安婦だよね。東西にのびた長屋で、「かやぶき家」、「カヤヤー」だった。長い通路があって部屋は長く横並びにしてあった。入口には事務所らしきものがあった。ここは、最初から慰安所として使ったわけではなく、歩兵第3連隊の宿舎として使われていたけど後から女性たちが移ってきた。女性たちが移住してきたのは、昭和19(1944)年の3月から4月頃だったと思う。小学校5年の新学期が始まる時期だったので覚えている。この辺は皆草刈場でしたし、最初は、何故、兵隊さんたちが居る所に女がいるのかなと、近くにあった炊事場でお手伝いする女たちでもないね。不思議に思った。中は部屋ごとに区切りをつけられていたと思う。戦後、宮古島では慰安所も日本軍が使った兵舎などもみな建材を取って使おうと争うかのようにとりに行った。僕らも長い「かやぶきの家」の木とか取って馬小屋でも造ろうかとしたけど、その時に入ってみたらやはり部屋ごとに区分していた。そんなに良いところではなかったし、女性たちも苦労したと思う。・・・なぜここに慰安婦がいたかというと、今は青々と植物が植えられているが、実は、ここは兵隊の宿舎と陣地の跡だ。なぜここに慰安所があったかというと、実は、ここは通信隊、機関砲隊、艦砲車両、大砲、そしてあちらは白井隊の軍馬がおかれた陣地の跡だからね。今はまったくその姿もなく、平和がいつまでもそこにあれと語っているようだけど。 |