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資料の詳細

出典種別 被害証言
現在の地域情報沖縄県 宮古島市
資料にある地域情報宮古島 村から少し離れたワラ葺小屋
慰安所があった時期1944年11月
記載内容1944年11月10日、大田で川本某(韓国籍創氏名、当時50歳)という人より、日本本土に行き女工として働けば賃金を多くとることになり、生活もゆたかになって親孝行も出来るから行かないかと誘われました。・・・その時川本某からいただいた前金はほとんど両親に渡し、簡単な荷物だけを持って同じく応募した30名の女工希望者と共に、大田を出発し釜山に着きすぐに関釜連絡船で下関に到着しました。下関には出迎えの日本人が居て、彼の案内によりすぐ別の船に乗せられ鹿児島港に到着し、こゝで指定された旅館に留まりながら旅のつかれをいやしました。・・・鹿児島を出港して2日目の事でしたが突然空襲を受け、私達が乗った軍用船は相当な被害を受けました。・・・3日目に傷ついた船は割合に大きな島に到着致しました、その島は沖縄の宮古島でした、私達を連れて来た川本某は、こゝで私達を日本軍人の将校に引渡していづこかへ去ってしまいました。・・・将校は私達を連れて村から少し離れたワラ葺の掛小屋へ行き、そこが私達の居住する家であると云いました。将校が去った後、やがて下士官がやって来ました。彼は「お前達は明日から日本軍女子挺身隊員となり、軍人の為身を挺して働く事になる。こゝにしるした規則は必ず守らなければいけない。若し規則を違反した場合は、直ちに厳罰に処す。」と云って、紙切れ1枚づつを各自に渡してくれました。それを読んで始めて私達は日本軍の慰安婦要員であることを知りました。・・・翌日から私達はワラ葺の掛小屋で日本軍の慰みものになりました、私はそのなかでも滝田大尉の専用となり、多くの兵隊に接することなく過ごすことが出来ましたが、他の女性は昼12時から夜12時まで1日数十名の将兵の相手をとらされ、片手にお金を持って列をなして順番を待っている兵隊達の姿が連日見受けられました。
証言者佳村文子(創氏名)
証言者属性朝鮮人被害者、当時22歳
部隊名
資料タイトル鎮魂
著者、公文書発信者など編集人:尹英九、発行人:高尾常吉
公文書宛先
発行日1978.11.1
発行所韓国人慰霊塔奉安会
ページ298-302
出典備考「或る女子挺身隊員の恨みからんた事情」
備考
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