記載内容 | 1941年(昭和16年)の夏、「内鮮一体」の旗のもとに、女子愛国奉仕隊に参加するのだということで、この附近からも何人かの16才から20才の少女が馬山や、釜山に集められました。少女達は、次々に上陸しては満州に向う日本の軍隊と共に、一番後の車両に物品同様に乗車させられ、第一線に近い田舎の町に連れていかれ、最初は旅館等で日本の将校によって3日3晩「慰安婦」としての特訓を受けた後、引率してきた中年の日本人と共に兵舎に引き取られました。・・・あまりにも期待を裏切られた女子愛国奉仕隊のあり方に、彼女達は引率してきた中年男に泣きわめきながら抗議しましたが、「お国のためにこうして働くのだ」と大声でどなり散らすだけで、翌日からは泪の「慰安婦」としての毎日を送らざるをえなかったそうです。簡単なつい立てを境にした座敷では、1人が入って用を済ませるまで10分もかからず、彼女達は下着を脱いだり着たりする間もなく、身動きもしない人形のように仰向けになったまま兵士達にまかせるだけでした。こうしてひどい時には下半身が血に染まり貧血して医務室にかつぎこまれた例もありました。慰安婦の中にはもちろん日本人も中国人もいました。 |