記載内容 | 3年後、再び召集を受け南方に行きました。昭和18年9月、私が25歳の時でした。門司港からシンガポールに向かった船旅は、1ヵ月もかかりました。その船の中に慰安婦の部屋があり、女達が乗船しているのでびっくりしました。「ピーヤ」「ピーヤ」と呼びました。日本人をはじめ、ロシア・台湾・中国・朝鮮人女性がいました。言葉でほぼ判別できました。朝鮮女性は忍耐強く、やさしかった。シンガポールからマレー半島、ビルマへと更に1ヶ月ほどかかって、クワラルンプール、泰緬、国境を越えてビルマ、ラングーンに上陸しました。ここにも慰安所があり、慰安部落がありました。兵隊の休日には、盛りの男達が衛門を出る時、衛兵から「一番」と薬、軟膏をもらい兵隊証明をみせて部落に向かい、慰安所ではどこも10人くらいも列んで待っていました。兵隊は休日の真昼間でしたが、私は下士官だったので時間がずれて夕方から夜になっていて、戦友と一緒に遊びました。寝たっきりで動かない女性を犯しました。廃屋の農家やヤシの葉っぱでできているような簡単な家で、隣の様子が手に取るようにわかるのです。前線基地にも後方部隊にも慰安所はあり、弾丸の中をピーヤを連れて防空壕に入った事もありました。南方では多く性病に患かりヨコネと言いましたが、麻酔もかけずにプクッと腫れた男の陰部を軍医が切り取るのです。 |