人間の恥としての
渡辺美奈(wam)
「どうかこれ以上の殺戮をしないで」と祈った記憶がよみがえってきました。一縷の望みを抱いて出されたたくさんの声明、呼びかけ。それでも、米国のブッシュ大統領は、9.11同時多発テロ事件への報復として、2001年10月7日にアフガニスタンへの空爆を始めました。それから22年後の同じ日に、ハマースはイスラエルに対し、テロと呼ばれる「報復」をしました。「報復」という言葉をあえて使うのは、2023年10月7日を起点にしてはならないと強く思うからです。1948年のナクバ以降のイスラエルによる占領、支配と入植、そのなかでの凄まじい暴力と殺害をまったく知らなかったわけではありません。
10月23日に学生有志が早稲田大学で開いた緊急集会の題名は「ガザ、人間の恥としての」でした。熱を込めて語った岡真理さんは、ホロコーストを生き延びたプリーモ・レヴィの「人間であることが恥ずかしい」、そしてアパルトヘイトを闘ったネルソン・マンデラの「パレスチナ人が解放されない限り、私たちの自由が不完全であることを知っている」という言葉を紹介していました。「じぶんごととして考えよう」という呼びかけを聞くことがありますが、これは、もし自分だったら、もし自分のおばあさんや娘だったらと、近しい関係を想像して考えることを求めているものではないはずです。1970年代にオーストラリアのアボリジニの女性たちから発せられ、フェミニストのなかで広く使われるようになった言葉に、「あなたが私を助けるためにおいでになったのなら、それは時間の無駄です、あなたにとっても、私にとっても。あなたの解放が、私の解放とつながるものだからおいでになったのなら、それなら手と手を合わせて働き始めましょう」という呼びかけがあります。レヴィの「人間であることが恥ずかしい」という言葉には、人間としてとても耐えることができない残虐行為を人間がすることを、ゆるしてきた無関心にも向けられていたのではないでしょうか。
英国がパレスチナを委任統治領にしたのとちょうど同じころ、1923年9月に起きた関東大震災では、多数の朝鮮人、中国人が虐殺されました。正確な数は隠蔽されてしまったとはいえ、1週間あまりで数千人が大日本帝国の官憲と民衆によって虐殺された日本と、1ヵ月で1万人以上がイスラエル軍によって殺戮されたガザ。人を殺し続けて「正気」でいられる狂気、そうしてしまったがゆえの恐怖を麻痺させるシステムに思い至ります。
関東大震災での朝鮮人虐殺を問われて、日本政府は100年経っても「資料がない」と言い放ちました。植民地主義を克服する気もないこの国では、私自身の解放もないでしょう。普遍を語っていた「権威」のメッキが剥がれたいま、一人一人がやるべきことはたくさんあります。