“民衆蜂起の時代”の連帯活動
池田恵理子(wam館長)
3.11の大地震は多くの命と生活を奪い、原発事故は地域を喪失させましたが、まだ被災地再建のメドは立たず、原発は放射能を放出し続けています。私は地震国日本が原発に頼るのは無理で、脱原発しかないと考えていますが、この間の選挙結果や世論調査を見ると、原発は依然支持されています。政治・産業・官僚・学会・報道の「原発翼賛体制」が築いた“安全神話”は揺るぎません。しかし今回の事故は、私たちの生き方や文明のあり方を根本から問うています。日本人が将来を見据えた決断をせず、原因究明も責任追及も怠って現状維持に流れたら、この国は一体どうなるのでしょう。
敗戦時、日本は似たような岐路に立たされました。敗戦は日本を変革できる絶好の機会でしたが、人々は戦争を「不幸な天災」と受け止め、指導者の責任を問うことも自らの加害に向き合うこともなく、「一億総懺悔」して水に流しました。敗戦から半世紀以上経った今も日本はアジアの被害者から戦争責任を問われ続けていますが、政府は真相究明も被害者への謝罪や救済も行わず、国際社会からは度重なる批判と勧告を受けています。原発事故でも日本は国際的な信用を失ってきました。今や日本は、利権を失うまいと責任逃れに走り、国際社会の協力を拒むばかりか情報を隠し、女性と子どもの命を危険にさらす国…と目されています。
wamの最寄り駅、山手線高田馬場の発車メロディは、懐かしい「鉄腕アトム」の主題歌です。ここに手塚プロダクションがあり、アトムの育ての親・お茶の水博士の科学省があったからです。どんな計算も1 秒でできて、60ヵ国語を話し、10万馬力の原子力モーターで動くアトムは、50~60年代を風靡した未来の夢のエネルギー・原子力のシンボルでした。しかし50年代と言えば広島・長崎の惨禍の記憶も生々しく、アメリカのビキニ水爆実験で第五福竜丸が被爆し、反米・反核運動が燃え上がった頃です。その最中に中曽根康弘は原子力予算を成立させ(54年)、翌年には日米原子力協定を締結し、原子力発電を導入しました。こんな荒業ができたのは、東西冷戦下の米国の核戦略と、CIAと通じた「原子力の父」正力松太郎のメディア戦略のおかげでした。55年の新聞週間の標語はなんと、「新聞は世界平和の原子力」。鉄腕アトムはこんな時代の申し子だったのです。
反原発の声は核実験反対運動が起こった70年代から始まり、スリーマイル島(79年)、チェルノブイリ(86年)の事故で一気に高まりますが、日本では「原発翼賛体制」の元で、反原発の科学者やジャーナリストはメディアや表舞台から排除され続けました。私は原爆やセミパラチンスク核実験場の番組を作ってきましたが、それ以上に原発問題に関わってきませんでした。3.11の衝撃から反省と自責の念にかられ、今になって必死に原発を勉強しています。すると情報を後出し・小出しする政府・東京電力、その発表を流すだけのメディアへの不信感はつのるばかり。各地で開かれる研究会や講演会に行くと、似たような人でどこも超満員で、入場できない人が溢れています。
原発を国策としてきたのは間違いだったことを認めて事実を明らかにし、責任をとり、これからのエネルギー政策を立て直していけるかどうか、この国も、私たち自身も問われているのだと思います。