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戦時性暴力、「慰安婦」問題の被害と加害を伝える日本初の資料館

「wamだより」VOL.48(2021.7)

  • 巻頭言 金学順さんと出会いなおす
  • 特集 金学順さんの名乗り出から30 年
    被害女性たちの今(特別編) 金学順ハルモニと私(李煕子)
    金学順さん~名乗り出から6年の足跡をたどる
  • wamの本棚から
  • 報告 wam セミナー
    天皇制を考える(4)「昭和の日」に考える天皇責任(山田朗)
    加害国のモニュメントをめぐる論争(米沢薫)
  • Next Step  城田すず子さんのテクストに引き込まれて(菊地琢)
  • 連載 扉をひらく24
    私のサバイバーとの出会い(曺金時江)
  • 連載 ベルリンからの風 24 女性への暴力を可視化する(梶村道子)
  • イベントカレンダー
  • wamデータ
  • wam ポジション・ペーパー1 公開
【巻頭ページ】

金学順さんと出会いなおす

渡辺美奈(wam館長)

金学順さんは、日本軍の「慰安婦」にされた被害を韓国で初めて実名で名乗り出た女性として知られています。それまでも、朝鮮の女性では沖縄に住んだ裴奉奇さん、タイの盧寿福さん、また「かにた婦人の村」にいた城田すず子さんなど日本の女性も知られていました。しかし、1991年8月14日、金学順さんが日本政府の責任を問い、その後裁判に訴えたニュースは、日本軍性奴隷制の実態解明につながる大きな変化をもたらしました。

1997年12月に亡くなった金学順さんの活動や足跡をたどりたいと思い立ち、年表を作成しました(5-6頁参照)。肺を患っていた金学順さんにとって、裁判や集会に参加するための来日は病との闘いだったことが見えてきます。

記録を読み比べするなかで、証言にも新たな発見がありました。金学順さんは3ヵ月あまりで慰安所を逃げ出すことができましたが、それは慰安所にやってきた朝鮮人商人に連れ出してもらったからだといいます。中国北部にあった日本軍の慰安所に、一般の朝鮮人男性がなぜ来たのだろうと思っていましたが、金学順さんの最後の来日と思われる広島での証言記録(1996年6月)にヒントがありました。夜中に突然、中国服を来た朝鮮人男性がやってきて、どんな部隊で、どういう闘いをしているかを金学順さんに聞いたというのです。立ち去ろうとする男に、金学順さんはどこかで捨ててもいいから連れて行ってほしいと頼み込み、途中で中国服に着替えて大陸各地を移動したといいます。中国語も日本語も操ったこの男性は、上海で解放を迎えた時、国の旗をたてようと、太極旗を知らない金学順さんに描いて見せたり、朝鮮独立闘士の金九の講演会に一緒に行ったりしています。軍が手薄な時に情報収集のためにやってきた活動家だったのかもしれないと想像しながら、その人との逃亡に賭けた10代の金学順さんはたいしたものだと感嘆しました。

胸に突き刺さったのは、妓生は誰でもなれるわけではない、「平壌の妓生というのは伝統的に非常に誇り高いもの」だったと、裁判で証言していたことです。金学順さんは母親が通っていた教会の学校に4年間通って読み書きを覚え、数え14歳で妓生学校に入り、卒業には厳しい実技の試験があったと語っています。文玉珠さんも妓生になって稼ぎたかったと語っていましたが、女性が独り立ちして生きていくための選択肢だったのでしょう。「キーセン」とカタカナにされ、日本男性による韓国への買春観光のイメージが抜けきれなかった90年代。養父に売られて「慰安婦」になったと書き立てられ、慰安所での被害そのものより「連行のされ方」に特別な関心を持つ人々を前に、妓生になる夢をくじかれた悔しさ、大事にしていた誇りは、ほどんど口にできなかったのかもしれません。

凛とした表情だけでなく、いたずらっぽい笑顔の写真も残されています。多くの人が金学順さんに出会いなおすことができるよう、記録をつなげていきます。