「許さない」という選択
渡辺美奈(wam)
NHK の朝ドラ『虎に翼』は、放送終了後もなお、話題に上っています。逃さず観たわけではない私にも、「許さない」ことを巡るいくつかの印象的な場面がありました。
その一つは、ドラマも後半、最高裁長官になった桂場が青年法律家協会所属のリベラル派裁判官らを左遷した「ブルーパージ」を主人公・寅子が批判する場面です。「桂場さんは若き判事たちに取り返しのつかない大きな傷を残しました。きっと一生許されない。私は彼らには、許さず、恨む権利があると思う」と寅子は桂場に伝えます。司法の最高権力者による判断を「一生許されない」とし、そのもとで人権を侵害された人に「許さず、恨む権利がある」とするのは、画期的なメッセージではないでしょうか。
立場の弱い被害者に対して「許すこと」を求める空気には、ずっと違和感がありました。「許した人」は高尚な人として称えられ、「許さない人」は強情な人として扱われる。「和」を尊び、「水に流す」ことが潔いとされる日本で、被害者が許すかどうかに社会が注目することは、取り返しのつかない被害を与えた加害者が、自らの行為に向き合う機会さえ奪ってしまいかねません。
日本軍性奴隷制でいえば、被害を受けた女性は「自分が悪かった」と自らを責め続け、恥辱の烙印を押された長い年月があり、名乗り出をきっかけに「悪かったのはあなたではない、恥ずかしいのは加害者だ」と世の中が変わるのを待たなくてはなりませんでした。その被害者に「許す」ことを求め、そこから「和解」が始まるように語ることも、そのような主張を称揚することも、まさに許されないことだと思います。
人間の尊厳を奪われ、苦しみを抱えながらも生き抜いた人が、何を許し、許さないのか、それは極めて個人的なことです。
アルゼンチンの「五月広場の母たち」のお一人、ノラ・コルティーニャスさんは、「私は忘れない、私は許さない、私は和解しない」と真相究明、正義を求めて最期まで闘いました。軍事政権下で強制失踪した息子の行方はわからないまま、昨年この世を去りました(『wam だより』vol.57 参照)。
水俣病患者の故杉本栄子さんは、水俣病を「のさり」(天からの恵み)と表現したことで知られています。「チッソを恨まない」と語った栄子さんの息子、杉本肇さんは一方、長い時間をかけて迷って迷った末、水俣に戻った今は、「被害を受けた者が簡単に許してはいけない。命まで奪った水俣病を軽視してはいけない」と、水俣病の語り部としても活動しているといいます(『東京新聞』夕刊 2024年8月27日)。
世界でも日本でも、人間の命、尊厳を奪う暴力が絶えません。同じ過ちが繰り返されているなか、簡単に許してはいけない。被害者が許しても、私は許さない、という選択があっていいはずです。何を許さないのかを明確にしつつ、「許さない」という怒りを、変化を創り出すポジティブなエネルギーにしたいものです。