国家がつくる記念日に抗う
渡辺美奈(wam)
「日韓条約60年」「戦後80年」、そして12月には日韓外相「慰安婦」合意から10年。今年もたくさんの記念日がめぐってきます。想起し、行動しなければならない日がこの数年、次々とやってきました。その年で終わりにはならないのに、そもそも何も終わってなどいないのに、翌年には関心が薄まる雰囲気になんともいえない焦燥感を感じてきました。2025年は年初から「戦後80年」を意識した特集が新聞や雑誌で組まれてきましたが、8月15日か、よくても8月末までにはこの熱気は冷め、連合国との降伏文書に調印した9月2日にさえ繋げられない―こんな8月を繰り返してきました。
日本の侵略戦争を思い起こす日は、「玉音放送」がラジオで流れた8月15日で本当にいいのでしょうか? ほとんど聞き取れなかったという天皇裕仁の声とともに、皇居前でひれ伏したり、うなだれたりする民衆の姿は、この日のテレビに必ず登場します。しかし、こういったイメージには報道記者による捏造、あるいは日時も真偽不明のものが多々あるといいます(佐藤卓己『八月十五日の神話』参照)。安堵や喜び、怒りなど、様々な8月15日の受け止めが知られるようになってもなお「一億総懺悔」的なイメージを流し続けることには、マスコミの惰性だけではない、政治的な思惑があると考えざるを得ません。
初めての「全国戦没者追悼式」が政府主催で開かれたのは、サンフランシスコ講和条約発効直後の1952年5月2日。その後は7年開かれず、第2回目は1959年3月28日、そして初めて8月15日に実施されたのは1963年だといいます。この日に政府主催、天皇列席のもとに「全国戦没者追悼式」を実施すると閣議決定したのは池田勇人内閣でした。靖国神社境内で追悼式が実施されたのは1964年の1回だけだといいますが、8月15日を国家の記念日とするのは、侵略戦争で無残な死を遂げた兵士を「顕彰」する靖国神社を国営化するもくろみや、当時「再軍備」と呼ばれた軍事主義の復活と無縁ではありません(山田昭次『全国戦没者追悼式批判』参照)。
「7月29日、この日だけはどうやっても忘れることができないよ」。今年の5月に亡くなった李玉善さんがそう語っていたと、「ナヌムの家」で一緒に過ごした矢嶋宰さんが教えてくれました。この日は李玉善さんが連行された日。あの日、あの時、あの場所にいなければ、「慰安婦」にされることもなかった。思い起こすと傷が疼く、そんな日だったのかもしれません。日本軍の「慰安婦」にされた多くの女性にとって、日本の敗戦は「解放」を意味しませんでした。日本人戦死者のみを追悼し、「平和を祈念」しながら加害の歴史を認めない日本の〈8.15〉は、李玉善さんにとって、どのように見えていたのでしょうか。
今号の『wamだより』では、「日韓条約60年」の集会報告、「沖縄戦80年」の記憶と継承、そして旅する「文玉珠さんの一人語り」など、植民地支配と戦争の記憶をめぐる文章を特別寄稿していただきました。いつ、何を思い起こすのか、それは戦争体験をもつ一人ひとりで異なるでしょう。記憶や追悼の領域まで国家に管理され、感情を動員されたくない、その思いを強くする夏です。