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戦時性暴力、「慰安婦」問題の被害と加害を伝える日本初の資料館

Q3.「慰安婦」は、誰が、どのようにして集めたのですか?

日本国内の場合

 日本国内からは日本人や在日朝鮮人の女性が集められました。当時、日本は「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」を批准していたため、国内からの徴集は21歳以上の性売買に従事する女性でなければなりませんでした。しかし、実際には21歳未満の女性や性売買に従事していない女性を連れていったケースもあり、誘拐や詐欺、人身売買が横行していたことが証言や文書からも明らかになっています。そうした事件に対して、日本軍は業者への便宜を図るよう日本の各県警察に依頼をしつつ、軍の関与を隠ぺいするように指示した警察資料も残されています。
戦場となり、たくさんの日本軍が駐屯した沖縄の場合、軍は現地に慰安所を作るよう県当局に申し入れました。泉守紀知事や具志堅宗精那覇警察署長はいったんは拒否しましたが、軍令に逆らうことはできませんでした。沖縄では最大の遊廓であった辻遊廓から500名が駆り出されたといいます。中には慰安所にいくのを拒否した女性もいますが、軍は那覇警察に「廃業まかりならぬ」と厳命しました。

植民地朝鮮・台湾の場合

 朝鮮では、知人、町内長、工場長、村にやってきた日本人などの「お金が稼げる仕事がある」「工場で働く」「看護婦の仕事がある」という言葉に騙されて慰安所に送りこまれたことを、被害を訴えて名乗り出た女性たちの多くが語っています。憲兵に「ちょっと来い」と言われ連れていかれたという証言もあります。連行に業者が関わった事例が多々ありますが、その業者の選定・統制には軍や憲兵、朝鮮総督府が関与していました。なかには姜徳景さんのように、女子勤労挺身隊として働かされていた富山県の軍需工場不二越から逃げ出したところを憲兵に捕まり、慰安所に連行された女性もいます。1941年の関東軍特種演習に際して、関東軍司令部参謀第3課の原善四郎が「必要慰安婦の数は2万人」とはじき出し、朝鮮総督府総務局に「慰安婦」の徴集を依頼しました。
 台湾でも、知人、職場の経営者、警察官などからの「給仕の仕事」「看護婦の助手」「いい仕事がある」「学校に行ける」などの言葉で騙されたり、村の巡査に「部隊で働け」と言われて村の駐屯所の慰安所に連れていかれた女性が被害を訴えて名乗り出ています。
 1942年、南方総軍は、ボルネオに台湾人の「慰安婦」50名を送るよう台湾軍に要請しました。台湾から「慰安婦」を南方に送り出す場合、南方総軍が「慰安婦」の手配や配置に関わりました。台湾軍の憲兵隊が業者を選定し、業者と「慰安婦」の渡航を台湾軍が取りしきり、陸軍省が許可を与えていました。

占領地の場合

 中国や東南アジアの日本軍が「抗日的」と見なした地域では、軍人が無理やり連行したケースがほとんどです。軍政下では、騙して連行したり、布や塩の代わりに女性を差し出させるケース、日本軍が村長など地元の有力者に命じて女性を集めさせたケースもあります。
 インドネシアでは日本軍が民間抑留所に入れていたオランダ人女性の中から日本軍が何人かを選び、「言う通りにしなければ家族に危害を加える」と脅して慰安所に連行したことも明らかになっています。