2024年10月6日
一言で「慰安所」と言っても、その管理・運営の形態は様々でした。軍直営の慰安所、軍が慰安所経営を民間に委託した日本軍専用の慰安所、一定期間、軍が民間の性売買施設を日本軍人用に指定した慰安所などがありました。軍が直営した慰安所では、それぞれの部隊で料金や利用時間、「慰安婦」の性病検診、コンドームの使用、注意事項などを定めた慰安所の利用規定を作っていました。いずれの場合も、軍が慰安所経営の統制・監督をしていました。
しかし、日本軍兵士の手記の中で慰安所、ピー屋(兵士が当時よく使っていた慰安所の別名)と呼ばれていたり、被害女性が「ここで被害を受けた」と証言している場所について詳細を見てみると、さらに多様な形態が浮き上がってきます。日中戦争以前から日本人が多く居留する町には居留民向けの歓楽街がありました。そこでは軍人への割引サービスがある、週末になると軍人が列をなすなど、軍への便宜が図られていたと推察される証言も残されており、それらも兵士にとっては慰安所として記憶されている場合が多々あります。さらに、激しい戦闘の続く前線や日本軍への抵抗の激しい村々などでは、都市部の慰安所に倣って、それぞれの部隊が自前の「慰安所」を設置することがありました。そうした小さな村々で被害を受けた女性たちの証言から見えてくるのは、掃討作戦で捕えた女性たちを連行して監禁し、部隊の兵士が輪かんをする、「強かん所」としか言いようのない状況です。