慰安所での生活は軍や経営者によって管理されていました。監視の目が厳しく、「慰安婦」の外出は取り締まられ、たとえ許されても裵奉奇さんのように決められた区域内での散歩ぐらいでした。逃げ出しても自分がどこに連れてこられたのか、また地理も言葉もわからない土地で行く当てなどありません。逃げても生命の保証もありません。中には逃げ出したものの追っ手に捕まり、見せしめのためにひどい体罰を受けた「慰安婦」もいました。
「慰安婦」には日本名がつけられ、着物や髪型も日本風にさせられました。慰安所には、昼間は下士官・兵が、夜は将校がきて、体調が悪くても生理であっても、拒否することはできませんでした。1日に10〜20人、多い時にはそれ以上の相手を強いられることもあり、病気になったり、性病に感染した「慰安婦」もたくさんいました。慰安所に入れられる女性は、最初に必ず性病検査を受けさせられましたから、性病は軍人からうつされたのです。
文必ギさんは、「日本兵は部屋に入ってくると、軍刀を畳に突き立てて迫ってきた。言うとおりにしなければ殺すぞという威嚇だった」と語っています。
宋神道さんは拒否したためにひどく殴られて鼓膜が破れ、右の耳が聞こえなくなりました。わき腹には10数センチの軍刀による傷痕が、股の付け根にも深くえぐられた傷痕があります。多くの女性が宋さんのように当時の傷を体に残しています。暴力を振るう日本兵たちの前で、彼女たちはまったく無力でした。
あまりに苦しくて自殺した女性たちもたくさんいました。「慰安婦」への監視が厳しかったのは「自殺防止」のためでもありました。人間らしく生きることができない、かといって死ぬこともできない生活は、まさに地獄の日々でした。
「慰安婦」たちは性的「慰安」にとどまらず、明るく振る舞うことも強要されました。そんな様子を「楽しそうだった」という兵士がいる一方、彼女たちの境遇に気づいていた兵士もいます。